じじぃの「科学・地球_427_アルツハイマー征服・セレンディピティー」

世界初認知症薬誕生の物語 杉本八郎教授第一回

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9jH-_Awpv8w

アリセプト開発者 杉本八郎


アリセプト開発者が語る、アルツハイマー根本治療薬の決意-

ドクターズチョコレート
杉本先生は成功率0.002%と言われる新薬開発の分野で、2つの新薬を生み出していらっしゃいます。創薬の世界では奇跡的なことだと聞いていますが、現在は3つ目の新薬を開発されているとか。まずは、世界初のアルツハイマー病治療薬「アリセプト」について、そのしくみを簡単に教えていただけますか。
https://doctors-chocolate.com/self-medication/10/

アルツハイマー征服』

下山進/著 角川書店 2021年発行

第2章 セレンディピティー より

  MBAを習得し帰国してきた新しい後継者のもと、製薬会社エーザイで「アセチルコリン仮説」に基づくアルツハイマー治療薬の開発が始まる。指揮をとるのは高卒の研究者だった。

セレンディップの3人の王子」という童話がある。セイロンの3人の王子が、当初は予想をもしなかった出来事に出会い、その偶然から大きな幸運をつかんでいく様を描いた童話だが、そこから「セレンディピティー」という言葉が生まれた。
失敗をしても、あきらめずに、観察をしていれば、そこから思いもかけない発見が生まれることがある。
そうだとすれば、後に製薬会社エーザイに年間3000億円以上もの売り上げをもたらし、エーザイグローバル化を一気におしすすめることになった「アリセプト」(アルツハイマー型、ビー小体型認知症の症状進行を抑制する薬)という薬を生んだのはまさに「セレンディピティー」だった。
アリセプトの探索研究を率いた杉本八郎はそう考えている。
世界的な製薬企業は、巨額の資金を開発に投じている。例えば、2019年現在、エーザイは年間1545億円もの金を薬の開発費にさいているが、しかし、着手した研究が実際に薬となるまでには、さまざまな関門がある。
化合物をみつけて合成し、その薬理を計る探索研究から、安全性や長期毒性を検査する後期研究をへて、実際に人間に投与する臨床に入る薬が選ばれる。臨床試験は、投薬量とその持続性を見きわめるフェーズ1から、プラセボと呼ばれる偽薬との比較で有位に薬効があるかどうかを確かめるフェーズ2、フェーズ3まで3つの関門があり、これらをすべて突破してようやく当局に申請するNDA(New Drug Application)に入る。そして当局の厳しい審査のうえに、承認されてはれて薬として流通するのである。

母親が認知症だった

本当の意味で、エーザイが、「創薬」メーカーとして生まれ変わるきっかけとなったのは戦前東京田辺製薬をやめて起業した内藤豊次の孫である内藤晴夫が開発部門で実権を振るうようになってからだ。内藤晴夫はノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院でMBAを取得し帰国後、筑波に新しくできたエーザイ筑波研究所の研究第1部の部長となった。1984年4月のことだ。後の1988年には社長になるが、当時から創業者の孫として周囲からリーダーとして嘱望されていた。
エーザイの本社は小石川にある。もともと研究は小石川でやっていたが、これを筑波に移したのが1982年4月。組合は研究所の筑波移転に反対した。実際にその移転を納得せず、東京に残った社員もいた。しかしそれが、組合の影響から逃れて研究に没頭できる下地となった。ビジネススクール経営学を学んだ内藤晴夫は1年研究所にいてじっと観察してから、翌年の84年に一気に組織改変を行なった。内藤の上に研究所所長がいるのだが、実際の所長は内藤だった。
内藤はまず、「探索研究」を担う研究一部を6つの研究室にわけて競わせたのである。
1室は抗生物質、2室が脳神経、3室が消化器、4室が循環器、5室が炎症、アレルギー、6室が血栓症というふうにテーマを分けて、各室がしのぎを削った。一室あたりの人数は約30名。化合物を合成してつくる「合成」と、その「合成」された化合物の特性を調べる「薬理」の2つのグループが各室にあった。
杉本は2室の脳神経を希望し、「合成」のグループ長になる。
杉本は、認知症に対して特別の思いがあった。
「痴呆」と当時呼ばれたその病気に母親がかかっていたからだ。1973年、杉本が30歳だった時に母親は脳梗塞から認知症を発症した。散々苦労をして9人の子どもたちを育てた母親が、最後は息子の名前もわからなくなった。
杉本は母親の苦労がよくわかっていた。エーザイに入社してから結婚するまでに、給料は封もあけずに母親に渡していた。
週に2日から3日、仕事の後に母親の元に通って、昔話を聞いて一緒に歌を歌う。
「あんたさんは誰ですか?」
「あなたの息子の八郎ですよ」
「私にも八郎という息子がいるんです」
そうして2時間ほど過ごしたあとに自宅に帰る生活を母親が亡くなる1978年まで続けた。杉本は、当時、母親を助けたいという思いから、脳の血管を拡張させて痴呆を改善させるという薬の創薬に取り組んだが、これは8年、8億円かかって失敗した。
「はっちゃん、8億円かかったんだから、お金返してよ」
この薬をドロップした理由を書いた報告書を提出した時に、内藤晴夫は言った。
杉本はリターンマッチの意味もあり、この新しい筑波研究所でのテーマをアセチルコリン仮説から狙うアルツハイマー治療薬に定めた。1983年のことだ。母親は亡くなっていたが、どうしてもこの病気で苦しむ人々とその家族に薬を届けたい。