――1冊にまとめる上で、カギになった取材はありますか。
患者全体の約1%を占める遺伝性アルツハイマー病の存在を知ったことはその一つです。アルツハイマー病の遺伝子が発見された経緯を取材していく中で、知りました。
科学者は1980-90年代当時、遺伝性アルツハイマー病の家系の血液を調べて突然変異のある場所が分かれば、病気の解明につながると考え、その発見を競いました。日本では青森(の弘前大学)や東京(の国立武蔵療養所神経センター)にいる研究者が追いかけており、取材で彼らに会いました。遺伝性アルツハイマー病はその家系に生まれると50%の確率で遺伝し、その100%が発症します。しかも発症は40-50代と若い。これはとても大変な病気だと感じ、だからこそ治療法の道筋が見えるならば書きたいと思っていました。
https://newswitch.jp/p/25582
エピローグ 今は希望がある より
「今は希望があります」。90年代に家族性アルツハイマー病の調査をした田﨑博一は言った。近年の研究のめざましい発展に、患者の側も情報共有をし自己決定することが求められる。
80年代、90年代に青森の家族性アルツハイマー病の家系たちを診てきた田﨑博一は、今も県内の精神科の専門病院で、家族性アルツハイマー病とかかわり続けている。
その病院を、2020年9月に再訪した。以前田﨑に会ったのは、2005年11月のこと。弘前大学医学部の助教授、青森県立保健大学副学長などをへて、その病院の院長に転じたばかりのことだった。
薄暗く、患者の姿もほとんどなかった当時とは、比べものにならないほど、活気にあふれ明るい病院に生まれ変わっていた。
「2005年にお会いしたとき、この病気は治療という点に関しては、将来の展望もなく、だから遺伝子変異があるとわかってもお伝えができない、ということをお話ししたと思います。しかし、今は『希望』があります」
田﨑が言うのは、DIAN研究(優性遺伝アルツハイマー病に焦点を置いた国際的な研究)の進展や、アデュカヌマブ(アルツハイマー病の治療薬)の承認審査の件をさしている。
米国のFDAは、2020年8月バイオジェンに対してアデュカヌマブに関して優先審査のプロセスをとることを通知した。バイオジェンは、優先審査を要求できるバウチャーを他の薬での公益への貢献により取得していたが、そのバウチャーを行使しなかったにもかかわらず、FDAはすみやかに審査をするということを決めたのである。このことで早ければ2021年1月、遅くともFDAがバイオジェンに送ったレターによれば、2021年3月7日までに結果がでることになる。
このことは、薬が承認されるサインだととられて、バイオジェンとエーザイの株価は急騰している。
ただ承認されるにしてもどのような形で承認されるのか、いぶかる向きもある。抗体薬はすでに何度か書いてきたように、生物製剤であるので、費用がかかる。薬の値段は1月100万円にもなると現在の時点で試算しているメディアもある。
しかも、予防のために発症前から何年間も投与し続けるとなると、そもそも健康保険がカバーできるのか、という問題がある。
エーザイはそのため、内藤晴夫(社長)が投資家とメディアに説明した2020年3月のインフレーション・ミーティングでも、認知症に関わる費用は、医療費だけではなく介護のコストが大きいことを強調。社会的ケアや家族などのケアによる費用も含めれば、認知症にかかるコストは2015年にグローバルで90兆円、2030年には220兆円になるとの試算を出した。
そうした比較衡量のなかでは、PET等を使ってリスクのある人が発症前から飲み始めることを保険でカバーすることは決して高くはない、と誘導しているということだ。
孤発性アルツハイマー病の発症の15年以上前にさかのぼるA3スタディ、それ以降の発症前のA4やA45スタディは、ハーバード大学にあるブリガム・アンド・ウィメンズ病院のレイサ・スパーリングや東京大学の岩坪威らによってすでに始まっている。この研究でも抗体薬がフェーズ3の治験として試されているが、それで効果があることがわかれば、アデュカヌマブ等も、発症後の患者だけではなく発症前の使用にも承認の道が開かれることになるだろう。
青森の田﨑博一が考えるのは、家族性アルツハイマー病の家系の人々への保険適用だ。家族性アルツハイマー病はその遺伝子を持っていれば100パーセント発症することがわかっているのだから、そうした人にこそ、まずまっさきに保険適用して、抗体薬を発症前から投与されることを認めるべきだと考えている。
諮問委員会
FDAはアデュカヌマブの審査にあたって、外部の委員による諮問委員会(Advisory Committee)を開くことにした。
諮問委員会は新薬承認の際に必ずしも開かれるわけではない。読者は、この本の最初でタクリンという副作用の強い薬の申請についてこの諮問委員会が開かれたことを知っている。あのときは、「現在アルツハイマー病の薬がない」という理由で、FDAが開催し、その意見を聞いたうえで承認にいたった。
諮問委員会は外部の有識者に、FDA側とバイオジェン側双方のプレゼンテーションを聞いてもらい、データを吟味してもらう。委員会の前には、広く一般からの意見も募る。
コロナ禍の下、全てはオンラインで行われた。あらかじめ、一般からの意見は、ドケットと言われる場所に投稿されていき、一般に公開される。そして会議の48時間前には、バイオジェン側の資料とFDA側の資料がアップされる。
11月4日(水曜日)にアップされた資料は両者が1本になっており、バイオジェンのデータと主張をそれぞれの論点についてまず掲載し、それに対するFDAの見解を囲みで提示するものだった。その文書の中で、FDAは、バイオジェンの治験の結果は、「明白なものであり、説得力がある」とし、アルツハイマー病の病状を改善すると述べていた。
バイオジェンとエーザイの株価は暴騰した。バイオジェンの株価は、水曜日1日で、45パーセント(!)の上昇を示し、355ドルをつけた。明けた木曜日の東京市場では、エーザイの株価はストップ高でつかず、翌日ついた始値は、水曜日の終値から2000円以上アップした10540円だった。
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FDAは諮問委員会の結論にしばられるものではないが、難しい判断を迫られる。
治験のデータが完全でないのは明白だ。矛盾する2つの治験結果がある。ではもう一度ちけんをすることを勧告するのか? となるとあと4年はかかる。そもそももう1本の治験をするだけの体力がバイオジェンとエーザイにあるか?
大きな影響力を持つ研究者や介護者の団体アルツハイマー病協会が、事前にドケットによせた意見書で、アルツハイマー病の悲惨な現状を述べそのうえで、もし治験の証拠が十分でないのなら、実際に市販した後の、患者に投与したデータを「フェーズ4」て見ればよいとしていた。
このいったん承認したうえで、実際に使用した患者のデータを集積して、治験データのかわりにするという「市販後臨床試験」は最近世界的にも強化されている。新薬が本当に有効か、また拡大した適応疾患がありうるかなどを判断するのに非常に重要だ。
知る権利
田﨑博一は、ロンドンでプレゼンテーションをした女性の母親の主治医だった。弘前大学医学部附属病院に母親をつれてきたまだ学生だった彼女のこともよく覚えている。
田﨑に2005年11月に会って取材をした時には、「この病気は家族会をつくることも難しい」と言っていた。今では、日本全国各地に遺伝性のこの病気の家族会があり、青森にもある。
そうした時代の変化を田﨑は喜んでいる。
田﨑博一が院長を務めるその病院を辞そうと、受付をでると、「患者さんの権利と責務」というタイトルのプレートが掲げてあるのに気がついた。
「医療の中心はあくまでも患者さんやご家族であることを深く認識し」と始まるそのプレートには、「知る権利」と「自己決定の権利」がうたわれていた。
<十分な説明と情報提供を受けたうえで、治療方法などを自らの意思で選択する権利、あるいは拒否する権利があります>
かつてアルツハイマー病には治療する方法がなかった。
しかし、近年の研究の進展は、たとえば家族性アルツハイマー病に関していえば、DIAN-TUの参加や「着床前診断」の適用範囲拡大の議論への参加など「治療」と「選択」を家族や患者ができるようになってきている。
そうした認識のもとに、田﨑が病院の職員と話し合い、2018年にこの標語を入り口に掲げることにしたのだという。