じじぃの「科学・地球_440_アルツハイマー征服・さらばデール・シェンク」

What Is Alzheimer's Disease?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7_kO6c2NfmE

Alzheimer’s Immunotherapy Pioneer Dies


Alzheimer’s Immunotherapy Pioneer Dies

Oct 11, 2016 The Scientist Magazine
Dale Schenk, who worked to develop a vaccine for Alzheimer’s disease, has passed away at age 59.
https://www.the-scientist.com/the-nutshell/alzheimers-immunotherapy-pioneer-dies-32714

アルツハイマー征服』

下山進/著 角川書店 2021年発行

第20章 さらばデール・シェンク より

  エラン崩壊後、医療ベンチャーで再出発した天才デール・シェンクに病魔が忍び寄る。すい臓がんにおかされた最後の日々に、アデュカヌマブの治験成功のニュースが入る。

すい臓がんを公表する

ハーバード大学のデニス・セルコーはアセナ・ニューロサイエンスをつくった学者だ。1987年サンフランシスコ国際空港のカフェでデールを面接して、2番目の社員にした。
それ以来、エランの時代も苦楽をともにしてきた。デールがプロセナを起業すると役員になることを引きうけていた。
デールから電話がかかってきたのは、デールがすい臓がんという診断をうけてすぐのことだった。セルコーも医者なので、すい臓がんという診断が重い事はすぐわかる。言葉にならなかった。
デールの希望で、まずプロセナの役員会で、情報の共有が図られた。
    ・
ドラ・ゲームスやピーター・スーベルト、リサ・マッコンローグらかってのアセナ・ニューロサイエンスの研究者たちは、この公表をもってデールの病気を知った。
マッコンローグは母親をすい臓がんで2001年に亡くしていたので、この病気のことをよく知っていた。すい臓がんは見つかりにくいため、発見された時点では他に転移していることが多い。診断された患者の5年生存率はわずか6パーセントだ。
デールは抗がん剤の科学療法をうけて、髪がすべて抜け落ちた。そのつるつるになった頭で地元紙のインタビューに応じて、この病気の死亡率が94パーセントであることについて聞かれた。
「僕は統計には興味がない。何が効くのかに興味がある」
CEOの仕事も続けた。
プロセナ自体は小さな会社だったので、アルツハイマー病の治療薬の創薬はできなかった。だが、自分が蒔(ま)いたワクチン療法の療法の種がどう芽吹いていくのかには、関心をよせていたのである。
AN1792(アルツハイマー病ワクチン)の治験の失敗から生まれた「自然抗体」BIIB037(アデュカヌマブ)フェーズ2の治験が進んでいた。

アデュカヌマブに効果あり

バイオジェン社はケンブリッジに本社がある。チャールズ川を隔ててボストンの対岸の街だ。アル・サンドロックは、そのバイオジェン社を出て、夕食をとろうと、メインストリートを愛用車で足っていた。2014年11月だから、デールの病気が公になる1ヵ月ほど前のことである。
電話が鳴った。
治験の責任者のジェフ・セビニーからだった。
「アル、アデュカヌマブのフェーズ2の結果がいくつか入ってきた。話せるか?」
「ちょっと待って車を止めるから」
アルは、結果がいいものであろうと、悪いものであろうと、驚いて事故を起こさないようにと、路肩に車を止めた。
「OK。車を止めたから大丈夫。話して」
「アミロイドを除去しただけではない。認知機能の面でも効果がある。MMSEでもCDRでも結果が出ている!」

AN1792もバピネツマブもアミロイド班を除去できたことは確認できたが、肝心の認知機能の面で、プラセボと変わりがなかった。つまり効果がなかった。
抗体薬の治験で、われわれは初めて認知機能の面で、治験の最初に設定されたMMSEとCDRのふたつの目標値を達成することができたのだ。
アルはジェフの話を聞きながらぞくぞくするような興奮を感じていた。
フェーズ2のデータがすべて入ってくると、翌年3月にフランスのニースで行われる国際的なアルツハイマー病の学会AD/PDで、その結果を公表することにした。

This is what supposed to be

2015年3月のニースの会議には、デニス・セルコーやUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)に教授の職をえていたリサ・マッコンローグも参加していた。バイオジェンのセッションは人気のセッションだった。
そこで、バイオジェンのジェフ・セビニーからアデュカヌマブの治験の結果が発表されると、場内はどよめく。
プラセボ、1、3、6、10ミリグラム各30人が、4週間に1回、52週にわたって投与をうけた。半年でアミロイドの集積が減り、1年で高用量の投与をうけた患者は、MMSEやCDR-SBなどの認知の検査でも有意な効果が出た――。
AN1792以来、失敗を続けてきたワクチン・抗体療法の治験で、初めて認知機能の面での効果が認められたのだった。
リサはすぐにニースからサンフランシスコにいるデールに電話をする。留守番電話にそのことを吹き込んだ。
デニス・セルコーの電話がデールにはつながった。デニスの報告を聞くとデールは満足そうにこう言ったのだという。
「ほら言った通りだろう。これが本来の結果なんだ(This is what supposed to be)」
サンフランシスコの自宅でデールはこのニュースを妻のリズにも伝えている。
リズは、デールが自分で切り開いたワクチン療法からの果実が他の製薬会社にとられることになったことに複雑な思いをしていた。デールがいま不治の病と戦っていればこそなおさらその思いが募った。思わず「悔しくはないの?」と聞いた。
デールは、ニコニコしながらこう答えたのだった。
「本当は嬉しいんだ。自分が信じていたことが、たとえ他人の手であれ実証されたのだから。何よりも患者とその家族にとっていいニュースだ」
デールは病気にあってもなお、前を見ていた。毎日プロセナに出勤し、指揮をとった。

ある静かな朝に

誰もがデールを死ぬとは思っていなかった。本人もそうだったかもしれない。
痛みが激しくなってきて、緩和ケアをうけることになった。担当医が高名な医者だったためか、実際に緩和ケアを施そうと病室にやってきたのは、若い医師だった。
その若い医者は、デールを見てこう言った。
「短ければ2日、長くともあと2ヵ月しか生きられない。その期間安楽に過ごせるように緩和ケアをしましょう」
「いや、そんなことはない。自分は大丈夫。ここからは出る」
こう言って、本当に病室を出て家に帰ってきてしまった。
翌日、終末ケアを行うためのホスピス医が家にやってきて、腹水をとったあとに、モルヒネなどで緩和ケアを施していった。
最期の時が近づいていた。
リズは前妻との間の娘2人も家に呼び寄せていた。
いつもと同じように、夫婦は一緒のベッドで寝た。緩和ケアを施したデールはよく眠っていた。
おやすみなさい。デール。
このようにして最後の夜を夫婦は過ごした。
翌日、リズが目を覚ますと、デールの体は冷たくなっていた。朝、まずデールがかわいがっている犬が部屋に入ってきた。デールに鼻をよせたが、冷たくなっているのを知ると、ポロポロと涙を流した。リズはその涙を見ながら、犬も涙を流すのかとぼんやり考えていた。
ついで、2人の娘と息子たちが寝室にひとりずつ入ってきて、冷たくなったデールと最後の時を過ごした。
2016年9月30日の静かな朝の出来事だった。
享年59歳。
デール・シェンク死亡のニュースは、またたくまに世界中のアルツハイマー病の研究者の間をかけめぐった。
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東京大学で井原康夫のあとを継ぎアルツハイマー病研究を続ける岩坪威は、デールと家族ぐるみでつきあったが、デール死亡の報を聞き、抗体薬が承認されれば、デール・シェンクはノーベル賞だってとることができたのに、とその死を惜しんだ。