じじぃの「科学・地球_431_アルツハイマー征服・有意差を得ず」

アルツハイマー治療薬承認でエーザイ「歴史に新たな1ページ」

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アルツハイマー征服』

下山進/著 角川書店 2021年発行

第6章 有意差を得ず より

  E2020の日本での治験は、第一相の10ミリで副作用が出たために、第二相では2ミリ投与がマックスとされた。が、米国の臨床チームは、それが誤りだ、と主張する。

研究職から人事部に来た人間はエーザイ史上初めてだった。しかも組織長ではない。部下のいない担当課長が杉本八郎についた肩書だった。
机の前に座っていなければならない、というのがまず苦痛だった。研究職の時は、自由に部屋を出入りし、研究棟の中を歩き回れたのが、9時に出社したら、ずっと座っていなくてはならない。
そして電話。
4月は学生たちが問い合わせの電話をかけてくる時期でもあった。目の前の電話に外からかかってくる。
しかし、これまで研究職としてシャーレをのぞくことしかしてこなかった人間は、どう対応したらいいかがわからない。
対応の仕方を、自分より10も年下の人間に聞かなくてはならない。
新入社員の研修の引率をやらされた。そのこと自体が屈辱だった。研究員がなぜ、こんなことをしなければならないのか? 普通だったらば、入社2、3年目くらいの男の子か女の子がやる仕事だろう。それを四十面さげた男が何でやるのか?
しかし、杉本八郎は、もう研究者ではなかったのだ。五十を目前にしたこの人事は、これがすなわち片道切符だということを意味していた。
研究者であり続けるために、社をやめようと思った。
他者の研究職に移れないかどうか、実際に働いてみたが、当時の日本の製薬会社は基本的に終身雇用制度であり、そもそも四十半ばを過ぎて移籍するような人事システムになっていなかった。
自分にできることは何なのだろうか?
筑波に研究所で下にいた飯村洋一らは、杉本のために社の業務の終わった後、私的勉強会をつくってあげていた。メンバーはBNAGをつくりだしたCADDの川上善之と飯村らだった。勉強会の名前は「BNAG研究会」。山津功が権力者だったために、山津の目の届いかないところでこっそりとやっていた。杉本は、人事部の勤務が終ると、わざわざ筑波まで出向いてその勉強会に出席した。そこで、杉本は、自分が臨床に送り出した薬の情報を得るのだった。
この勉強会の場でだけ、自分は研究者に戻れるような気がした。自分たちが心血を注いで通したアルツハイマー病の薬BNAG、臨床医薬品名E2020は、うまくいっているだろうか?
E2020は、杉本が人事部にきた1990年4月の1ヵ月後には、臨床第二期に入っていた。
しかし、日本での臨床試験ははかばかしくなかったのである。

「タクリン」の再評価

米国と日本での臨床第二期が続いている間に、大きな動きが、アメリカの医薬品の承認機関であるFDAアメリカ食品医薬品局)であった。
アセチルコリンエステラーゼ阻害剤に「タクリン」という物質があったのを覚えているだろうか。オーストラリアで第二次世界大戦中に合成されたアセチルコリンエステラーゼ阻害剤だ。昏睡に陥った動物や人間の患者を再び覚醒させる目的で使われた薬だったが、これをアルツハイマー病の患者に投与することを始めたのは、医者のウィリアム・サマーズで、最初はアルツハイマー病患者17人に投与した。その結果、特に軽症の患者の群に有意な改善がみられた。サマーズがその結果を1986年11月13日付の「ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」に投稿し、これをエーザイの杉本八郎は読んで、独自のアセチルコリンエステラーゼ阻害剤の探索を始めたのである。
その「タクリン」は、米国国立老化研究所、米国アルツハイマー協会、ワーナー・ランバート社によって、1987年9月から多施設で二重盲検試験を行うが、肝機能障害が多発したため1ヵ月で治験が中止されていた。
しかし、FDAで、この「タクリン」の治験について再評価が始まったというのである。外部のアドバイスを求める諮問委員会(Advisory Committee)を招集することをFDAは決めた。11名の有識者からなる諮問委員会は、FDAとワーナー・ランバートから資料提供をうけFDAへ「答申」を出す役目をおう。
1991年3月に開かれた最初の諮問委員会では「承認の勧告」は否決される。ワーナー・ランバートがさらにデータをつけくわえて再申請をすると、ここで、「試験的新薬運用」(Treatment IND)をしてはどうかと、委員会は答申したのである。「試験的新薬運用」とは、その病気に対する薬がまだまったくない状態の時FDAが新薬の使用を一時的に認め、そこから集まってきたデータをもとに、商用が「承認」を決める特例措置だった。
1992年2月から始まった「試験的新薬運用」によって、結果的に7400人の患者が、治験に入ったのと同じことになり、そのデータをもとに、1993年3月に委員会はもう一度集まり、今度はFDAへの「承認の勧告」が可決される。
エーザイはこの「タクリン」後の商品名「コグネックス」の動きを注視していた。実際に、エーザイアメリカの松野聡一は、FDAの委員会の傍聴席に足を選んで議論の推移を聞いている。
FDAが「タクリン」の試験的新薬運用を認めたということは、E2020にとっては朗報だとエーザイの臨床チームは捉えた。
もし、「タクリン」が治療薬として承認されるのであれば、このE2020が承認されないはずはない。なぜなら、「タクリン」は半減期が短く、1日4回も飲まねばならず、肝障害リスクのため医師は注意深く服用を指示しなければならないが、そうした問題がE2020にはないからだ。
日本の後期第二相では、これまで認知症の度合いを測っていたメジャーを変えて、ADAS-cog(エーダス-コグ)がとりいれられた。
痴呆の治験の難しさはどうやって痴呆の程度を測るかという尺度の問題がある。それまで使われていた長谷川式簡易スケールやMMSEといったテストは満点が30点だった。30のうち、軽度中度の人は平均が20点。その動きが2~3点のところで、プラセボとの差を出さなければならなかった。その差をもっとはっきり分かるように米国で創り出されたのがADASというスケールだった。
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しかし、キーオープンの結果は、またもや「有意差を得ず」。
林秀樹ら日本の臨床チームに深い失望感が広がった。残るは、米国のキーオープンだけだった。これが駄目だということであれば、E2020はあきらめざるを得なくなる。

米国、フェーズ2、コードブレイク

米国での臨床第二相のコードブレイクの日が来た。この日、封印されていたキーをあけてコンピューターに入力し、四群間の成績の比較がわかるのである。
ちょうどその日シャロン・ロジャーズ(スイスから移籍してきた)は、休暇に入っていた。グランドキャニオンの登山申請は1年以上前からしなくてはならず、その日と重なってしまったのだった。
ニュージャージーを出て、飛行機の国内線を乗り継ぐたびに、フリードホッフ(米国から移籍してきた)に電話をして、「結結果どうなったのか?」と尋ねた。
「まだキーオープンしていない」
シャロン・ロジャーズは、この治験はADAS-cogのメジャーで測ったものさえ、有意な結果が出れば成功だと考えていた。他のメジャーは目が粗すぎる。このADAS-cogをどの医療サイトでも、統一の基準できちんと使って認知症の進行度合いを測るようにしていれば、かならず結果は出る、そう信じていた。そのために自分は毎週、全米の医療サイトを回って医者や調査員たちを訓練してきたのだ。
グランドキャニオン国立公園の玄関口であるフラッグスタッフ空港に飛行機はついてしまった。飛行機をおりるとすぐに、公衆電話からティーネックのエーザイアメリカにいるフリードホッフの席に電話をかけた。
フリードホッフはすでに結果を得ていた。
電話口でその結果を読み上げていく。
ADAS-cogではきれいに差がついていた。5ミリ投与ではプラセボと比較して有意に進行が抑えられている、との結果だった。
「やった。とうとうやった!」
空港の公衆電話の受話器を握りしめながら、ロジャーズは叫んでいた。
結果はすぐに小石川にあるエーザイ本社の内藤晴夫(社長)のもとにも伝えられた。それまでE2020は治験のパイプラインの中にあるワンオブゼムにすぎなかった。エーザイの社内報である「週報」でもとりあげられたことはない。しかし、この時初めて、内藤はこのE2020が、エーザイの将来の国際化を担うことができる薬になるのではないかということを認識したのである。