じじぃの「科学・地球_22_科学とはなにか・終章・科学知を活用するために」

The history of the world according to corn - Chris A. Kniesly

動画 YouTube
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トウモロコシの進化

『科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点』

佐倉統/著 ブルーバックス 2020年発行

終章 科学技術を生態系として見る より

「科学技術は誰のものなのか?」――この問いを中心にすえて、科学技術を歴史的かつ俯瞰的に見てきた。細部にこだわるのではなく、できるだけその全体像を捕えたいと思ったからだ。
本書の締めくくりとなるこの章では、俯瞰的な視点の拠りどころとしてきたものについて、補足的な説明をしておきたい。いわば、方法論についての考察である。
方法論は通常、本論を始める前に提示しておくものである。だが、背景となる一般論的で抽象的なモデルの話を最初にしても、あまり読者の興味を惹かないのではないかと思い、具体的な科学技術の話題が終わった後に説明することにした。いわば、ここまで述べてきたことの「振り返り」として使っていただければと思う。
この本でぼくが企図した歴史的俯瞰の基盤をなす視点は科学技術をひとつの生態系として見るということだった。多種多様な構成要素(生物種)が互いに複雑に関係しあって、時間の経過とともに予期せぬ動きを見せていく。
もっとも、科学技術の総体を生態系にたとえる見方自体は、とくに新しいものではない。経済学者ヨーゼフ・シュンペーターイノベーションによる経済発展理論は、技術を含む経済システムをひとつの生態系と見なしているといっていいだろうし、都市工学や建築の分野でも、人工物と自然とのあいだにアナロジーを見ることはしばしばおこなわれてきた。
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この本でぼくが試みたのは、これら先達の作業を、さらに科学技術の総体と歴史に拡張してみる、つまり、科学技術と社会の関係を生態系おダイナミクスとして俯瞰することだった。
この見方のポイントは3つある。
第1に、生態系では因果関係が複雑に絡み合っているので、一部分だけ見て、良かれと思って変更しても、めぐりめぐって状況を悪化させることがあるかもしれないこと。
第2に、生態系は長い時間をかけて形成されてきた、進化の産物であること。
第3に、生態系はそれだけではぼくたち人類の役に立つものではないので、そこから何か有益な資源を得ようと思ったら、生態系を飼い慣らす必要があるということ。
以下、順に見ていこう。

洗濯機の普及は主婦の労働を楽にしたか

第1のポイントの例として、自動洗濯機の普及を取り上げる。これは、アメリカの技術史研究者ルース・シュウォーツ・コーワンによる、家事労働の技術史という画期的な研究(『お母さんは忙しくなるばかり』 法政大学出版局)にもとづくものである。
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結局、「近代化によって必要でなくなった労働は、それまでは女でなく男と子どもたちがやっていた仕事であった。(中略)これらの仕事のいくつかは楽になったけれども、仕事の量は増えた。シーツや下着を頻繁に替えるようになり、洗濯の量が多くなった。(中略)そのうえ、手でやっていた労働はそれまで召使いの仕事であったが、機械を使うようになって主婦の仕事になった」のだった。(コーワン、前掲書)

科学の変化と生物進化の類似性

第2の、時間軸に沿った歴史的経緯を重視する点については、科学の知識や技術の産物の変化と、生物進化の類似性に触れておきたい。
生物の進化過程とは、自己複製する情報(遺伝子)が、環境に適応するように変化していく過程でもある。これは科学の知識や技術の産物も同じで、だから生物の進化と文化の進化には共通点がある。文化進化における複製情報の単位を「ミーム」というが、これはイギリスの進化生物学者であるリチャード・ドーキンスによる造語だ。
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第2章で触れた科学技術の社会的形成も、研究開発段階と実用化された後とでは技術をとりまく環境が変わるから、「何か良いか」に関わる選択圧も変わってくるために生じると考えられ、同じ枠組みで扱うことが可能になる。

「包丁理論」の有用性

最後の第3点は、すでに何度も述べてきたことであらためて再確認になるが、生態系である科学の知識は、それだけでは必ずしも人間にとって役に立つものにはならないということだ。自然の営みは、人間にとっての善悪とは無関係である。自然の状態が人間にとって良いものだというのは、人間が勝手に思い描いている幻想にすぎない。
技術は、人間が人工的につくり出したものではないか。なぜ役に立たないのか? しかし、人工物が役に立つか立たないかは、その使い方など、道具と人間、道具と社会の関係によって決まることである。
このような見方は、技術に対する「包丁理論」として、批判的に語られることが多い。科学技術のもつ複雑な性質を単純化しすぎている、という批判だ。だがぼくは、包丁理論は、ぼくたちが科学技術に向き合うときには有効な見方だと思っている。
これは、道具がなにか人に危害をあたえたときに、その道具を免責することを意図しているのではない。道具や人工物のあり方を考えるときには、つねにその使い方や使われる場面などと一緒に考える必要がある、ということを主張したいのだ。

人類は古来、自然の生態系がもっている資源を、手間をかけ、時間をかけ、家畜や栽培植物というかたちで利用してきた。コメもコムギもトウモロコシも、イヌもネコもウシもウマも、みんな野生の状態でもおよそ使い物にならなかったのが、数千年から1万年という時間をかけた人為選択の結果として、今のような有益なものになったのである。その結果、これらの動植物は、人工的な環境でなければ生きていけないものになっている。

科学知を活用するために

新型コロナ感染症への対応がうまくいったのは、韓国や台湾など、少し前に重症急性呼吸器症候群SARS)、中東呼吸器症候群(MERS)などのコロナウイルスによる感染症で打撃を受け、その際の失敗から体制を整えて準備できていた国か、あるいはニュージーランドのように首相のリーダーシップが明確で成功した国である。つまり、専門的知見があるかないかではなく、それを活用できるかできないかが、分かれ目なのだ。
今まで自分たちがやってきたやり方のまま進んでいくならば、専門的技能はいらない。むしろ、組織に入ってから、そこでの仕事をこなしながら身につけていくことこそが、その道でうまくやっていくための「専門性」だったのかもしれないが、異業種・異文化間での人と情報のやりとりが圧倒的に多数になっている今、そのような内輪の論理だけではもはや立ち行かない状況になっているのは明らかだ。
文化や文脈に依存する暗黙知的な「場の力」は、それはそれで強力ではあるけれども、それだけではなく、普遍的な場面でも効力を発揮する科学や技術の専門的知見をどれだけ有しているかが、なによりの資産になるはずである。
これは、課題に事後的に対応する場合だけではなく、この先の組織や社会をどうデザインしていくかについても大きな役割を果たすはずだ。すでに、市場原理至上主義的な経済システムを超えるしくみの模索や、環境問題への真摯な取り組みを政治経済のしくみに組み込む試みなどが、あちこちで芽吹き始めている。
たとえばAIのような先端科学技術についても、将来に資するための新たな視点や枠組みをつくるためのものが、もっと必要なのだと思う。本書で書いたことが、そのような、少しでも視点を遠くへもっていくことの助けになれば、うれしい。