じじぃの「科学・地球_15_科学とはなにか・なぜ科学について語るのか」

Chimpanzee (Pan Troglodytes) [National Geographic Documentary HD 2017]

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TiMgREobXEw

Chimpanzee (Pan Troglodytes)

霊長類学

ウィキペディアWikipedia) より
霊長類学(英語: primatology)は、ヒト以外の霊長類を対象とした学際分野のことである。
霊長類学の研究者は動物行動学、生態学、遺伝学、心理学、文化研究、社会学などと方法論を一致し、研究手法についてとくに決まったやり方があるわけではない。
【欧米の霊長類生態学
霊長類の生態の研究は20世紀初頭に始まった。ロバート・ヤーキーズは1910年代に霊長類研究所を作り、飼育下の霊長類の行動を研究した。ヤーキーズの弟子に当たるカーペンター、ヘンリー・ニッセン、ハロルド・ビンガムらは野生霊長類の調査のため東南アジアやアフリカに送られた。
リーキーやウォッシュバーンは類人猿の行動を詳細に研究することは人類の進化の解明に繋がると期待していた。スチュアートと夫人のジーン・アルトマンは1971年からアンボセリ国立公園でヒヒの生態の研究を本格化させた。
ジーン・アルトマンは特に、観察者バイアスを排除するために全ての個体を均等に観察するランダムサンプリング法を考案し、これは現在でも個体群生態観察の標準となっている。1974年にはドュボワの大学院生であったサラ・ハーディが、10年前に杉山幸丸が発見した子殺しの再調査のためにインドのアブ山を訪れ、それが異常行動ではないことを確認した。ハーディは子殺しの性的対立説を唱え、メスの対抗適応を発見し論争を引き起こした。

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『科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点』

佐倉統/著 ブルーバックス 2020年発行

第1章 「なぜ」「どのように」科学について語るのか? より

ぼくが科学者ではない理由

そのおばあさんのひと言(「うちの畑をチンパンジーが荒らすんですよ。追い払うんだけどね、またすぐ出てくるの。あなたチンパンジーの研究しているんでしょ、なんとかしてもらえませんか」)は、ぼくの中で何度も繰り返しぐるぐる回っていて、やがて深く沈潜していった。なるほど、こうなったら覚悟を決めざるをえない。科学研究をおこなうこと自体が不可逆的に社会的な営みなのだから、研究を続ける以上、現実世界の複雑な問題を避けて通ることはできない。科学時術に関わるということは、社会に関わるということなのだ。関わり方は濃淡いろいろあるにせよ、今の時代、科学が社会と無縁でいられることは不可能である。
帰国後(博士課程に在学していた時、西アフリカ、ギニア共和国の山奥のボツソウ村で野生のチンパンジーの生態調査をおこなっていた)、ぼくは博士論文をチンパンジーの研究で仕上げ、理学博士号を取得した。しかし、そのまま霊長類学者にはならず、科学技術と社会の関係を研究する道へ進んだ。つまり、科学の「内側」で活動を続けるのではなく、科学技術を少し「外側」から眺め、科学技術と外部との関係を調べることにしたのだ。
科学者というのは、科学的な研究をおこない、その成果を学術専門誌に論文として発表することが仕事だ。それが、科学的な知識を生産するということだ。ぼくは、そのような仕事をしなくなって久しい。だから、ぼく自身は科学者ではない。科学技術と社会の関係を研究している研究者ではあるが、科学者ではない。
そのようなぼくが科学について語るということは、科学の「外側」から科学に向き合うということに他ならない。それに、科学の内側というか、科学そのものの方法論的な特徴や哲学的基礎づけについては、多くの議論の蓄積があり、おおよその決着はついている(と思う)。今さらぼくが屋上屋を重ねる必要もないだろう。
河合雅雄(著者の指導教官)さんのひと言は、サルからサル学者へとぼくの視点を広げてくれた。ギニアのおばあさんのひと言は、サル学からサル学と社会の関係へとぼくの視点を広げてくれたのだった。

外側からの視点が不可欠な理由

外側といえば、科学技術に対するぼくのアプローチも、科学技術論の本流からはずれている。科学哲学や科学史は、おもに物理学を「科学」の典型例として想定していて、その哲学や歴史についてをもっぱらの研究対象としていた。生物学の哲学や歴史がさかんに語られるようになったのは、1960年代以降のことである。
その生物学のなかでも、ぼくが大学院で専攻した霊長類学や動物行動学は、実験を主たる方法として用いる領域ではない点が特徴的だ。データは野外調査で直接観察によって得るので、サンプリングが不均衡になりがちなのも問題だが(だからジーン・アルトマンの方法論の研究が重要だった)、もうひとつの問題は因果関係の推定が一筋縄ではいかないことだ。実験研究では、独立変数を体系的に制御することで、結果の差異を生じさせている変数(要因)を補足することができる。直接観察では、その方法は使えない。
一方でそれは、複雑なシステムの因果関係の連鎖を扱う統計手法の開発をうながしたり、定量的な研究だけでは抜け落ちてしまう質的なデータを扱う手法を発達させてきた。これらの方法論や視点は、今後ますます重要になってくることは間違いないのだが、それについては第6章でふたたび触れることにして、ここでは、ぼくの「科学者」としてのトレーニング自体も周縁的なものだったことをあらためて確認して確認しておきたい。つまり、この本におけるぼくの科学へのまなざしは、二重の意味で「外側」からのものになっている。
だが、それは決して欠点ではないはずだ。
外側から論じて科学についてわかるのか、そもそもそれは「科学とはなにか」ではないのではないか、この本のタイトルは羊頭狗肉ではないか、と批判される向きもあるかもしれない。しかし、現在の科学技術は社会との関係なしには成り立たない存在だ。科学技術について考えるには、外側からの視点も不可欠なのだと言いたい。ある領域の中にいると、えてしてその領域自体を絶対視してしまい、ほかの領域との関係のなかに自分たちのことを位置づけるのが難しくなってしまうことがある。少し外側から科学技術を語る視線は、だからこそ、重要なのではないか。