チンパンジー「アイ」と心を通じて 京都大の松沢教授とは 霊長類学をリードした歩み
2020年6月26日 京都新聞
世界の霊長類学をリードしてきた京都大の伝統の中でも、松沢哲郎特別教授の存在は別格だった。研究の主な対象はチンパンジー。「チンパンジーは人に最も近い。チンパンジーと人との違いが分かれば人とは何かが分かる」。そう考え、霊長類研究所で研究を続けてきた。
特に、霊長類研究所で暮らすチンパンジー「アイ」と40年以上にわたって関係を築いてきた中での研究が多くの成果を上げた。チンパンジーの「心」を通して人間とは何か、を探究した。
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/290872
情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論 紀伊国屋書店
【内容説明】
従来の理論を刷新し、人間の本性の見方に新たなパラダイムをもたらす!
幸福、悲しみ、怖れ、驚き、怒り、嫌悪――「脳は反応するのではなく、予測する」
心理学のみならず多くの学問分野を揺さぶる革命的理論を解説するとともに、情動の仕組みを知ることで得られる心身の健康の向上から法制度見直しまで、実践的なアイデアを提案。英語圏で14万部、13ヵ国で刊行の話題の書。
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
第12章──うなるイヌは怒っているのか? より
わが家ではイヌを飼っていないが、友人が飼っている何頭かのイヌは拡大家族の一員になっている。私のお気に入りは、ゴールデンレトリバーとバーニーズ・マウンテン・ドッグの雑種のラウディーで、エネルギーに満ちあふれ、遊び好きで、つねに何かをしようとしている。その何にふさわしく、よく吠え、飛び跳ね、他のイヌや見知らぬ人が近寄るとうなり声をあげる(rowdyは「騒々しい」「乱暴な」の意)。要するに、ラウディーはイヌなのだ。
ときにラウディーは手に負えなくなることがある。そのために、ほとんど処分されかかったことがある。ある日ラウディーは、飼い主で私の友人のアンジーに連れられて散歩をした。そのとき1人の少年が近づいてきて、なでようとした。ラウディーはこの少年を知らず、吠えながら彼に飛びかかっていった。見たところ少年にけがはなかったので、数時間後、(その場に居合わせていなかった)彼の母親がラウディーを役所に捕獲させて、「危険なイヌ」として登録したのは驚きだった。その後数年間、あわれなラウディーは口輪をはめて散歩しなければならなかった。そして、再度誰かに飛びかかったら「獰猛なイヌ」として登録され、場合によっては安楽死させられていただろう。
。
チンパンジーはボノボとは対照的に、邪悪な側面もあるチャーミングで賢い動物だと見なされてきた。チンパンジーは、なわばりを奪ったり、食べ物を確保したりするために、機会を見つけては殺し合いを繰り広げる。また、理由もなく見知らぬ個体を攻撃し、厳格な上下関係を維持し、メスを叩きのめして性的に服従させる。ボルボなら、争いは交尾によって解決しようとするはずだ。そのほうが大量虐殺よりはマシであろう。
とはいえチンパンジーは、概念の学習ともなると不当な扱いを受けやすい、言語の実験では、チンパンジーの子どもは母親から引き離され、自然な環境とは大幅に異なる人工的な環境で育てられる。通常チンパンジーの子どもは5歳になるまで母親が授乳し、10歳になる頃まで母親とともに暮らす。したがってそのような早期の識別は、母子の内受容体ネットワークの配線を変え、実験の結果に多大な影響を及ぼしている可能性がある(それが人間の乳児であった場合を考えてみればよい)。
より自然な環境でテストを行なったところ、チンパンジーの感情的ニッチは、大木の実験が示すところより広いと見なせる結果が得られた。この知見に関して、私たちは京都大学霊長類研究所の霊長類学舎、松沢哲郎に多くを負う。彼は、非常に印象深い課題を達成している。森林に似せて造成した戸外の敷地で3世代のチンパンジーが飼育されており、毎日チンパンジーは、実験するために、自ら進んで実験室にやって来るのだ。もちろん、それに対して報酬が与えられる場合もあるが、そこを強調すると肝心な点を見逃しかねない。チンパンジーは、松沢ら研究所のメンバーと長期にわたって信頼関係を結んでいる。たとえば、母親チンパンジーは自分のひざの上に子どもを乗せ、研究者たちが子どもを使って実験することを認めている。ある実験では、人間とチンパンジーの乳児を対象に、(本物に似せたミニチェアを用いて)哺乳類、家具、乗り物の概念の学習がテストされている。この学習は、母親チンパンジーのひざの上に乗せられた状態で、報酬を与えずに進められれる。信頼関係を結んでいる実験者より母親の近くにいるという事実は、チンパンジーの子どもの感情的ニッチに実験の状況を引き入れることを可能にしているのかもしれない。驚いたことに、このような状況のもとでは、チンパンジーと人間の乳児は、同程度にうまく概念を形成するのだ。それでも人間の乳児は、おもちゃのトラックを動かすなど、自発的にモノを操って概念の形成を促進できたが、チンパンジーの乳児にはできなかった。
松沢のチンパンジーの群れは、この動物の持つ概念形成能力の限界を調査するのに最適であろう。概念システムが柔軟に変化しうるチンパンジーの乳児を母親のひざの上という自然環境でテストし、第5章(「概念、目的、言葉」)で取り上げたような概念構築の実験を試みることは可能なはずだ。チンパンジーの乳児は、「トマ」などの無意味な言葉を用いて、知的な類似性がほとんどないモノやイメージを、人間の乳児と同じようにグループ化できるのだろうか?
しかし現時点では、チンパンジーが合目的的概念を形成する能力を持つことを示す確かな証拠は存在しない。
・
動物が人間同様に感じているという自分の主張を正当化するために、あらゆる脊椎動物が、核として情動の神経回路を共有していると見なす科学者が以前としている。著名な神経科学者ヤーク・パンクセップは、うなるイヌやネコの写真や、「母親を求めて泣き叫んでいる」鳥のひなを撮影した動画に、その種の神経回路が存在することを示す証拠を見出すよう、つねにい視聴者を誘導している。だが、その種の情報神経回路は、いかなる動物にも備わっていないはずだ。あなたは、よく知られた4つのF(戦う<fight>、逃げる<fleeing>、食べる<feeding>、生殖する<mating>)をはじめとする行動を司る、生存のための神経回路を備えている。この神経回路は、内受容ネットワークに属する身体予算管理領域によってコントロールされており、気分として経験される身体の変化を引き起こす。だが、情動に特化しているわけではない。