じじぃの「歴史・思想_461_サピエンスの未来・人間の位置をつかむ」

Do Asians THINK Differently?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aEd7msMYLgU

optical Illusion diagram

Jesus Christ in Clouds

The Differences Between East And West In Terms Of Culture And Education

November 3, 2020 Global From Asia
Curious about the Western world vs the Eastern world?
It has been said that East and West can never meet up. They differ in history, religion, political system and so on. Differences are also clearly seen in the Eastern and Western ways in dealing with education.
https://www.globalfromasia.com/east-west-differences/

『サピエンスの未来 伝説の東大講義』

立花隆/著 講談社現代新書 2021年発行

はじめに より

この本で言わんとしていることを一言で要約するなら、「すべてを進化の相の下に見よ」ということである。「進化の相の下に見る」とはどういうことかについては、本文で詳しく説明しているが、最初に簡単に解説を付け加えておこう。
世界のすべては進化の過程にある。
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我々はいま確かに進化の産物としてここにいる。そして、我々の未来も進化論的に展開していくのである。
我々がどこから来てどこに行こうとしているのかは、進化論的にしか語ることができない。もちろん、それが具体的にどのようなものになろうとしているのかなどといったことは、まだ語るべくもないが、どのような語りがありうるのかといったら、進化論的に語るしかない。
そして、人類の進化論的未来を語るなら、たかだか数年で世代交代を繰り返している産業社会の企業の未来や商品の未来などとちがって、少なくとも数万年の未来を視野において語らなければならない。人類の歴史を過去にたどるとき、ホモ属という属のレベルの歴史をたどるなら、100万年以上過去にさかのばらねばならない。
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本書では、ジュリアン・ハックスレーやテイヤール・ド・シャルダンといったユニークな思想家の発想を手がかりとして、そこを考えてみたいと思っている。

第4章 人間の位置をつかむ より

自然界における人間の位置

”がリガー”は基本的に時間と空間の対数尺ですから、テイヤール・ド・シャルダンのいう7つの感覚(空間の無限さ、無限の時間、数、比率、質、運動、相互の関連に対するもの)のうち、1、2、4の感覚を養うのには役に立ちますが、3の「数に対する感覚」を養うのには役に立ちません。「数に対する感覚」というのは、要するに、この宇宙で起こるどんな小さな物質的変化、あるいは生命現象上の変化にも、驚くほどおびただしい数の要素(エレメント)がかかわっているということを知る能力です。
この世界で起きる変化は、ほとんどが基本的に化学的現象として起きています。化学的現象は、分子の相互作用で起きます。分子は、高校で化学をかじった人なら誰でも知っているように、1モルの物質(水なら18グラム、水素なら2グラム、酸素なら32グラム)の中には、必ずアボガドロ数、6x1023個の分子があるわけです。1023といったら、1兆の1000億倍です。どんな小さな化学変化にも、とてつもない数の分子がかかわっているわけです。
そのようなエレメントが、この宇宙にはどれくらいあるか。分子だと分子によってあまりに大きさにちがいがありすぎますから(生体高分子だと分子量何万というものまであります)、さらにその下のレベルの原子、原子も大きさにちがいがありすぎるので、その下の核子(陽子、中性子)のレベルで数えて比較すると、DNAが106から109。細胞が1012から1015、人間はその細胞が60兆あるから1028くらいです。
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これまでこの地球上に生まれて死んだすべての人、つまり人間の歴史がはじまって以来の全人口がどれきらいかというと、実はそう大したものじゃないんです。もちろん正確にわかっているわけじゃありませんが、世界総人口は相当の間100万人以下だったんです。
氷河時代に終わった1万年前あたりから人類は急速に増えはじめます。文化的にも新石器時代に入り、原始的な農業がはじまりますが、そのころまだ世界人口は550万人程度と推定されます。だいたい兵庫県の人口程度ですね。紀元1年ごろで、やっと1億3000万人です。19世紀のはじめで9億人、20世紀のはじめで16億人です、20世紀の終りが50億人あまりだから、この世紀に生まれた人が、どの世紀に生まれた人よりも圧倒的に多いんです。
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テイヤール・ド・シャルダンのいう、養うべき感覚のうちの残り3つ(質、運動、相互の関連に対するもの)がどういうものか、ここにかかげておきます。
 「5、質の感覚、もしくは新しいものにたいする感覚。世界の物質的な統一性をこわすことなく、自然のなかで完成したものと成長するものとの絶対的な諸段階を識別するにいたる感覚。
  6、運動に対する感覚。きわめて緩慢な動きのうちにかくされている抑えがたい発展を知覚し、また休息というヴェールの下につつみかくされている激しい動揺を知覚し、さらにまた同じ事物の繰りかえしの中心に、まったく新しいものがすべりこんでくるのを知覚することができる感覚。
  7、相互の関連に対する感覚。継続するものとか、集団をなしているものとかいわれる皮層的な並置のもとに、物質的な関連と構造の統一性を発見する感覚」
テイヤール・ド・シャルダンは、このような7つの感覚を獲得することによってはじめて、人間は自然界における人間の存在意義をつかめるようになってきたのだといいます。つまり、「見る力」というのは、このような7つの感覚をみがき上げ、その綜合として獲得されるものなんです。そしてその獲得は、個人のみならず、人類が共同作業として長い時間を行ってきたものです。「この感覚を綜合綜合綜合漸次獲得してきたことが、人間の種々様々な戦いの歴史そのもの」なのだというわけです。

「まとまりをつける」脳の性質

ここまでのところは、見る能力の不足の話ですが、その反対に、見る能力の過剰の問題もあります。つまり、見えないものを見てしまう。見えるはずがないものまで見てしまうという現象です。幻視とか妄想、錯視のたぐいですね。これには生理的な要因によるものと、心理的な要因によるもの、神経学的な要因によるものなどがあります。いわゆる錯視現象もあれば、「幽霊の正体みたり枯尾花」のような現象もあるし、病院に行ったほうがいいとしかいいようがない現象もあります。後者の場合、非常にしばしばあることですが、本人は、自分が人に見えないものを見ているということが異常だとぜんぜん思っていなくて、それが見えない他人のほうが異常だと思いこんでいるんです。こういう人は病院に連れていっても、医者が異常だと思ってしまうから、行くだけムダだということになります。本人は他人に見えないものを見る能力が、自分の人並みすぐれた能力のあかしだと思ってしまっているわけです。じぶんはスーパー正常で、狂っているのは一般社会だと思い込んでいる。
これが物理的視覚象の話なら、誰が異常で誰が正常かはあまり問題がないところですが、物事をどう解釈するかという解釈の問題がかかわってくると、ことは簡単ではありません。(幾つかの錯視図を示して)錯視にはいろんなパターンがあり、多くのパターンについてなぜそういう錯視が起こるのかという生理的あるいは心理的なメカニズムの説明がついています。錯視のパターンの1つに、見えないものを見るというパターンがあります。(三角形と3つの丸が組合わせになった図を示して)典型的なのはこれですね(図.画像参照)。これは本当は三角形でなくて、頂点の部分に3つの松葉形があるふだけなんですが、確かに三角形に見える。この切れた部分を頭の中で補って見ているからですね。
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実はサイエンスだってそうですよね。実際の実験事実、観察事実は断片にすぎないけど、それをつなげる1つのせつめいをつけると、立派な理論になる。
断片的な情報から全体性を回復してしまう人間の自発的な能力について研究したのが、ゲシュタルト心理学です。断片から全体を作り上げるとき、人間の脳は幾つかの特有のルールに従います。一言でいえば、まとまりをつけるようにするんです。それも、美的で、かつ合理的を持ったまとまりがつくようにする。その他、バラバラのものはグループ化するとか、グループ化したときあまりが出ないようにする、曲線はなめらかになるようにする、線分は閉空間を作るようにまとめるなどなど、いろんな法則が見出されています。
そういう法則が、自然それ自体の反映なのか、それとも人間の脳の神経的な理由からそうなっているのかわかりませんけど、人間の認識の基本的な傾きとして、そういうものがあるんです。そして、人間の脳が自動的にやってしまう補完は、そういう法則にのっとって行われてしまうことになります。見えないものを補うことで、図形なら合理的でまとまりのある図形に、ストーリーなら合理的でまとまりのあるストーリーにしてしまうというこどですね。

しかし、何をもってより合理的とするか、よりまとまりがついているとするか、あるいはより美的であるとするかは、かなり文化的な問題で、その人がどういう文化圏で育ったかによって同じ断片を見てもちがうものを見てしまうことがあります。

こういうことをいま述べているのは、テイヤール・ド・シャルダンの進化論を語るためには、そういうことを知っておく必要があるからです。テイヤール・ド・シャルダンの進化論は、非カトリック的ではあるけれども、相当に宗教的な色彩を帯びたものですから、日本人には理解しがたい部分もある一方、そういう思想が欧米では世に広く受けとめられたという事実から、むしろ西欧社会の文化的特質がよく見えてくるという側面もあるんです。