Dancing the Vision of Teilhard de Chardin
The errors of Pierre Teilhard de Chardin
November 13, 2017 Social Systems Theory
Teilhard (1881-1955) was was a Jesuit priest and a paleontologist who was censored by the Catholic Church for his writings on evolution.
He argued that evolution proceeds teleologically from inanimate matter (the geosphere) to living organisms (the biosphere) to the a level of human thought encompassing the planet, which he called the noosphere. (Incidentally, the nearest approximation to Teillard’s noosphere might be the Internet.) The goal of evolution for Teilhard was called the Omega Point, which is identified with Christ or a universal Christ Consciousness. Evolution proceeds from matter, to life, to mind, to spirit. The idea is that evolution culminates in a singular point, where all separation is transcended.
https://socialsystemstheory.com/2017/11/13/the-errors-of-pierre-teilhard-de-chardin/
はじめに より
この本で言わんとしていることを一言で要約するなら、「すべてを進化の相の下に見よ」ということである。「進化の相の下に見る」とはどういうことかについては、本文で詳しく説明しているが、最初に簡単に解説を付け加えておこう。
世界のすべては進化の過程にある。
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我々はいま確かに進化の産物としてここにいる。そして、我々の未来も進化論的に展開していくのである。
我々がどこから来てどこに行こうとしているのかは、進化論的にしか語ることができない。もちろん、それが具体的にどのようなものになろうとしているのかなどといったことは、まだ語るべくもないが、どのような語りがありうるのかといったら、進化論的に語るしかない。
そして、人類の進化論的未来を語るなら、たかだか数年で世代交代を繰り返している産業社会の企業の未来や商品の未来などとちがって、少なくとも数万年の未来を視野において語らなければならない。人類の歴史を過去にたどるとき、ホモ属という属のレベルの歴史をたどるなら、100万年以上過去にさかのばらねばならない。
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本書では、ジュリアン・ハックスレーやテイヤール・ド・シャルダンといったユニークな思想家の発想を手がかりとして、そこを考えてみたいと思っている。
第9章 「超人間」とは誰か より
研究者は未来の進化を語れるか
しかし、一般の生物学者、進化の研究者は、その辺(人間活動の知のネットワークは現在も量的に拡大しつつあり、より精密になり、より複雑化しつつあること)の目配りが全く不足していて、進化というと、過去の進化しか考えていないというのが現状です。まるで、人類進化はもうとっくの昔に止まってしまっていて、あとは水平飛行をやっていると考えているかのようです。そのような考え方は根本的にまちがいだとテイヤール・ド・シャルダンはいいます。生前未発表に終わった「問題の核心」という文章(書かれたのは1949年、『人間の未来』渡辺義愛訳<著作集第7巻>)の中で、こう書いています。
「多くの生物学者は――それも比較的すぐれた学者たちなのだが――(人間は他のすべての生物同様、進化によって自然のなかに現れれてきた、すなわち生まれてきた、ということについて完全な確信をもっているうえに)、人類はホモ・サピエンスの段階に到達することのよって、有機体としての最上空に達し、あとはその高さを維持して飛ぶほかないと考えているようだ。したがって、人類生成の歴史は、もはや過去を回顧するだけのものになってしまったようである」
しかし、人類進化はすでに頂点に達しているという考え方には全く根拠がないし、考え方としても合理的ではない。なぜこれまできた進化がそこでストップしてしまうのか。むしろ、冷静に現状を見るなら、人類進化は新しい飛躍の時期を迎えようとしているのではないか。
「人間そのものがいまなお形成されつつあるのである。別の言い方をすれば、人間は動物学的にみてまだ生成しきっていない。心理学的にみても、達成の極地にはたどりついていない。むしろ何らかの形で、一種の超ー人間が胎動しはじめ、社会進化の(直接もしくは間接の)作用によって、近い将来に姿を現わしてくるのちがいない」(同前)
人類は、超進化を起こし、超人間になろうとしている。これがテイヤール・ド・シャルダンの未来進化論の骨子です。超人間というと、ニーチェの超人を思い出してしまうかもしれませんが、ニーチェの超人とテイヤール・ド・シャルダンの超人間は全く別物です。
ニーチェの「超人」
ところで、ニーチェの超人思想を知っている人、どれくらいいますか?(パラパラと手があがる。)ニーチェというのは、20世紀思想の最大の源流の1つで、それを知らずして20世紀思想は何も語れないというたぐいのものですから、『ツァラトゥストラかく語りき』くらいは、ぜひ読んでおいてください。
『ツァラトゥストラかく語りき』は、人間がいかにして超人にされるか、その道を説くものです。その序文で、ニーチェは、「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきあるものである」(『ツァラトゥストラかく語りき』手塚富雄訳、中央公論社による。以下注記しないものについては同じ)といいます。超人は「Ubermensch」です。
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善と悪とは、神または神的なものから与えられた規範としてあるべきではない。それは人間が創造する規範に変わらなければならない、というのはニーチェの考えです。
「創造するものとは、人間の目的を打ち建て、大地に意味と未来を与える者である。こういう者がはじめて、あることが善であり、また悪であることを創造するのであると」
善と呼ばれるものと悪と呼ばれるものを解体して、再構築することによって、1つの真実を生み出すという作業を、ニーチェは人間社会における最もファンダメンタルな善悪のルールと目されているモーセの十戒を例にとって自分でやってみせます。
「『おまえは奪ってはならない。殺してはならない』――こういうことばをかつて人々は神聖と呼んだ。このことばの前に人々は膝(ひざ)を折り、頭を垂れ、靴を脱いだ。
しかし、わたしは君たちに問う。今までにこういう神聖なことば以上にはなはだしい強奪者と殺害者があったろうか。
いっさいの生そのもののなかに――奪うと殺すとの要素があるのではないか。そしてこのようなことばが神聖とされたことによって、真実そのものが――殺害されたのではないか」
神という存在に要請される最大の機能は、人間が守るべき第1のルール――基礎的を倫理則(善悪の弁別)を与えることにあったはずです。しかし、ニーチェは神が与えた道徳律を「奴隷の道徳」と呼び、そんなものは必要でない、といいます。真の善悪の弁別則は神によって与えられるべきではなく、人間が作り出すべきものだといいます。そうなると、神はそれだけ不要であるということになります。実際、ニーチェは神の必要性を認めず、神の死を宣告します。ここから、あのニーチェの最も有名なテーゼ、「Gott ist todt(神は死んだ)」が生まれるわけです。
テイヤールの「超人」
ニーチェが『ツァラトゥストラかく語りき』を書き上げたのは1885年のことで、メンデルの”再発見”前のことですし、それから4年後、1889年には発狂してしまいますから、本当の進化現象については、彼は何も知らないで終わったわけです。あの程度の認識、あの程度の記述で終わったのも無理からぬところがあります。
ニーチェがほとんど観念世界のお話としてしか超人への進化を考えなかったのに対して、テイヤール・ド・シャルダンは、生物学的リアリティとして、人類が超人間へ進化していくことを考えていたのでです。といっても、普通の生物進化のように、種の中に変異が蓄積して……といったダーウィン的進化を考えていたんじゃないんです。テイヤール・ド・シャルダンの進化論はもっともっと壮大なんです。
テイヤール・ド・シャルダンは、、全地球的な人類の知のネットワークとして、精神圏(ヌースフィア)というものを考えていたわけです。そして、生物の歴史は一貫して複雑化=意識の法則によってもたらされる進化の歴史だったと考えていたわけです。
当然、その法則による複雑化は、いまも運行中であるということになります。進化はいまも進行中だということです。その結果として何がもたらされるかを考えることが、未来の進化を考えるということです。
複雑化の進行にともなって何が起こるかといえば、小体化が起こるというのがテイヤール・ド・シャルダンの考えでした。小体化というのは、システムを構成するエレメント(要素)がより小さくなるということです。そうなると、そうなっただけ、単位体積あたり、より多くのエレメントが詰め込まれます。そうなると、エレメント間の結合は密になり、より緻密で、より複雑な構造ができあがっていく。それによって同時に、エレメントの間の相互作用が増大し、システム構造の次元が一段アップして、より高次の構造ができるようになる、というわけです。
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つまり、テイヤール・ド・シャルダンが、超人、超人間というとき、それは、人間をエレメントとして作られる、生きた超巨大な高次構造体ができるということなんです。個としての人間存在をはなれた話なんです。分子が集まって超分子ができる。組織が集まって器官ができる。器官と組織が集まって1つの生物体ができるというような話なんです。人間個々人が個体のレベルでそれぞれ人間を超える超人に進化するというようなレベルの進化論とは全く別次元の話なんです。
かつて、イギリスの経験論哲学者で、政治哲学者でもあるホッブスが、こっkを、人間をエレメントにして作られた、伝説上の巨大怪物、リヴァイアサンにたとえましたが、それに近いような発想です。
しかし、テイヤール・ド・シャルダンの考えがそれとはまたちがうのは、その超巨大な生きた構造体は、リヴァイアサンのような手におえない怪物ではなく、人間よりはるかに高次な意識を持ったこの上すばらしい生きものになるだろうということなんです。複雑化=意識の法則に従う進化の歴史において、より複雑化した物質は、より高次の構造と、より高次の意識を持つようになるという道をたどってきました。そして、物質から生命が生まれ、生命体はより低次のものからより高次のものに進化し、ついにヒトを生み出したわけです。ヒトをエレメントとして生み出される、そのより高次の生命体は、当然その延長上にあって、人間より高次の意識を持つようになる。それは、複雑化の究極、意識化の究極となるのだから、オメガ・ポイントと名づけられるだろうというのです。