じじぃの「歴史・思想_377_物語オランダの歴史・インドネシアの独立」

Jejak Proklamasi Kemerdekaan Indonesia

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bu-di49udCI

Dutch-Indonesian Round Table Conference

池上彰のニュース検定

2020年11月18日 テレビ朝日 【グッド!モーニング】
きょうのキーワード 「建国の父」。

問題 「インドネシアを植民地支配していたのは?」

・イギリス
・スペイン
・オランダ
正解 オランダ

池上彰さん解説】

 「デヴィ夫人の夫、インドネシア建国の父・スカルノは就任以来22年間に渡り初代大統領を務めました。インドネシア第二次世界大戦までの長い間オランダの植民地支配を受けていました。スカルノは反植民地運動を展開。その後太平洋戦争が始まると日本軍がインドネシアを占領しました。スカルノは日本との協力を模索します。1945年8月15日に日本が敗戦。8月17日にスカルノは大統領になります。インドネシアは独立宣言します。オランダは独立を認めず、再び植民地支配を開始します。オランダを国際世論が非難。国際連合が調停に入り、1949年にインドネシアは独立します。スカルノは植民地支配から独立したアジアやアフリカの国々をまとめることにも力を尽くした。1955年、アジア・アフリカ会議を開催し、平和十原則を発表。全人種・国家間の平等を訴えました」

『物語 オランダの歴史』

桜田美津夫/著 中公新書 2017年発行

オランダ再生へ――1945年~21世紀 より

1945年の東インド

独立運動の発端から振り返ってみよう。1942年3月9日、オランダ植民地軍は日本に降伏した。その後、約10万人のオランダ人が鉄条網で囲まれた強制収容所に入れられ、さらに1万7000人が捕虜としてビルマや日本などへ移送された。
日本軍は、オランダ人市民の強制収容を暫定的な措置ととらえていたが、実際には3年半以上にも及び、その結果、食糧の欠乏、病気の蔓延、医薬品の不足などのため、1万6000
人もの人々がこの過酷な環境を生き延びることができなかった。
他方、インドネシア民族主義運動の指導者スカルノは、この日本軍政時代に、日本との協調を図りながら独立に向けた準備を進めていた。彼は1930年代の大半をオランダの植民地刑務所か、遠く離れた島での亡命生活で過ごしたが、日本人はスカルノをオランダ人よりも敬意をもって遇した。したがって彼の選択には無理からぬものがあった。そして日本の指導のもとで初めて現地住民の武装化が進められ、軍事訓練が行われる。
1945年8月15日、日本が降伏すると、その直後の17日、スカルノはバタファア(ジャカルタ)の自邸の前庭で、タイプ打ちした短い宣言をわずかな人々に向かって読み上げた。
  私たちインドネシア民族は、ここにインドネシアの独立を宣言する。権力移譲その他に関する事項は、十分な配慮をもって迅速におこなう。ジャカルタにおいて。
                (後藤乾一、山崎功『スカルノ』)
これは、スカルトとその同志ハッタが、急進派の青年指導者たちの突き上げを受けた結果である。青年グループは、日本から与えられた独立ではなく、日本とは無関係に自ら独立を勝ち取った形にするためにも、一刻も早い独立宣言が必要と考えていた。こうしてスカルノは新インドネシア共和国の大統領に、またハッタは副大統領の地位に就く。

「インディエがなくなると災難が生まれる」

オランダ軍がようやく東インドに到着したのは翌1946年3月であった。オランダ政府は東インド植民地を手放すつもりなど毛頭なかった。1930年代の国庫収入の13%強が植民地によるものだったからである。そこから「インディエ(蘭領東インド)がなくなると災難が生まれる」(Indie verloren, rampspoed geboren)とのスローガンがいつしか広く使われるようになっていた。ウイルヘルミナ女王も東インド植民地の回復を強く望んでいた。
オランダは、日本降伏直後のインドネシア共和国独立宣言に対して、スカルノは日本の傀儡(かいらい)、「半日本人」であり、交渉相手とはみなされないという立場をとった。つまり、独立宣言は、オランダ領東インドファシスト体制を存続させようとする日本の企みにすぎないという見立てである。オランダは、スカルノの影響下にあったジャワ、スマトラインドネシア共和国領域を包囲する形で、親オランダ勢力をまとめ上げ、東スマトラ国やパスンダン国といった傀儡的な国家、地域を作り上げていく。

インドネシアの独立――アメリカの圧力と外相スティッケル

オランダ政府のドレース内閣で外相をつとめたディルク・スティッケル(1897~1979)は、グローニンゲン大学で法学を学び、ビジネス界に身を置いた後、戦時中の労使の連携組織から生まれた「労働協会」の議長を1945年から48年までつとめた。戦後復興の困難な時期に、ストや労働争議がオランダであまり起こらなかったのは彼の指導力のおかげと言われる。
1946年に第1院議員になると、48年にはピーテル・ヤコーブス・アウトとともに「自由民主国民党」(VVD)を結成して、自由主義に新たな生気を吹き込んだ。のちには、アメリカのケネディ政権と重なる時期に「北大西洋条約機構」(NATO)の事務総長をつとめることにもなる。ドレースによれば、「めったにない才能と際立って純粋な性格の持ち主」であった。
スティッケルは、東インドの問題を、連立を組むカトリック国民党の大臣たちの反対を押し切って、国内の植民地問題から国同士の外交問題へと変えることに成功した。たとえ植民地帝国の終焉に繋がろうとも、オランダにとっていちばん重要なのはアメリカとの緊密な関係を維持することだというのが彼の信念であった。
こうして、1949年8~11月にハーグで円卓会議が開かれ、12月27日、ユリアナ新女王も隣席して、オランダは東インド植民地の主権を放棄し、インドネシア共和国の独立を正式に承認した。400年以上に及ぶオランダの「植民地帝国」としての歴史に、ついに事実上幕が下ろされたのである。