じじぃの「歴史・思想_197_世界史の新常識・インドのトラウマ」

英国総督 最後の家』予告映像 2018年8月11日(土・祝)全国公開

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kdWixhyH0yk&feature=emb_title

The Partition of India of 1947

インド・パキスタン分離独立の真実とは。歴史の裏側描く映画『英国総督 最後の家』監督インタビュー

2018年08月10日 ハフポスト
イギリスの最後の統治者として、インドに派遣されたルイス・マウントバッテンを中心に、総督邸で繰り広げられる、ヒンドゥームスリム陣営の政治的駆け引き、そしてイギリスの策略などがスリリングに描かれる。

――それだけトラウマがあったということは、祖母から当時の話を聞くことは少なかったですか。

チャーダ:はい。祖母はパンジャーブ出身ですが、そこでは互いの宗教、信条をリスペクトし合い、上手く共生できていたのがある日突然変わってしまったような感覚があったようです。
https://www.huffingtonpost.jp/hotaka-sugimoto/movie-20180810_a_23497505/

『世界史の新常識』

文藝春秋/編 文春新書 2019年発行

近現代

インド グローバルな亜大陸 【執筆者】脇村孝平 より

インダス文明とガンジス文明

インダス文明は、紀元前2600年ごろに現れ、紀元前1900年ごりに、忽然と消え去ってしまった。その後、1000年ほどの時間の間隔をおいて、ガンジス川中流域に「ガンジス(ガンガー)文明」が成立する。このガンジス文明の成立は、その後のインド史を大きく規定するヒンドゥー教カースト制の原型を形づくり、さらには仏教を生み出したという意味でも重要である。
このガンジス文明の第1の条件は、紀元前1500年ごろに中央アジアからインド北部にやってきた遊牧民系の「アーリヤ人」の存在である。ただし、このアーリヤ人の侵入によってガンジス文明が劇的にもたらされたという理解は適切ではない。むしろ、先住の諸民族(ムンダ系の諸語を話した人々)との融合を経つつ、極めて漸進的に進行した過程と理解されるべきであろう。
第2は、インド亜大陸北部の自然地理的な条件である。インダス文明は、エジプト文明メソポタミア文明と同様に、「アフロ・ユーラシア内陸乾燥地」に位置し、しかも同じく大河川(インダス川)の領域という条件によって特徴づけられている。他方、その東側に位置したガンジス川中流域は、いわゆる「モンスーン・アジア」に属し、インド洋からのモンスーンの影響を受ける湿潤地域に位置していた。

ムガル帝国の「解放性」

インド亜大陸は、「インド洋世界経済」の中心であった。それに加えて、ヨーロッパの商業勢力の参入がインド洋交易の更なる発展をもたらした。16世紀にはポルトガル船、さらに17世紀と18世紀にはオランダ東インド会社およびイギリス東インド会社の商船の活動が著しかった。特にヨーロッパの商船が、この地域の特産物である綿製品を調達するために、この海域に銀を持ち込んだのが大きかった。16世紀以来、新大陸(ラテンアメリカ)の銀がスペインを通してヨーロッパに持ちこまれ、さらにインド洋海域に大量の銀がもたらされた。
こうして、ヨーロッパの商業勢力を通じて、インド亜大陸は、地球規模のグローバル化の中に位置づけられることになったのである。
この時代、陸上交易を通じて、中央アジアやイランとの結びつきが強く、物資の移動のみならず、人の移動も盛んであった。多数のインド系商人が、中央アジア、イラン、ロシアなどに拡散・居住し、ネットワークを構築したのである。ちなみに、ムガル帝国(1526~1858年)の場合も、宮廷に仕えた貴族官僚の中に多数の中央アジアおよびイラン出身者がいた。
ムガル帝国の時代もまた、イスラームの時代であったが、それによってヒンドゥー教の信仰が抑圧されたわけではなかった。実際、ムガル帝国の支配層には、ヒンドゥーを含む多くの非ムスリムが加わっていた。その意味で、多様な出目の人材が重用されていたのである。この時代、イスラームヒンドゥーを問わず、多文化が重なり合いつつ、爛熟した文化が創造されたと言ってよい。

イギリスに加担した「協力者」

イギリスによるインド支配の端緒となるプラッシーの戦い(1757年)は、奇妙な戦いであった。詳しく述べる紙幅はないが、多勢に無勢のはずであったクライブ率いるイギリス側の軍勢が、ベンガル太守軍に大勝したのは、太守軍の中に裏切り者が出たことが大きかった。軍事的な裏切り者だけではなく、イギリス側に加担したのは、ベンガルの有力商人たちであった。むしろこちらの方が影響は深刻であったといえる。
このプラッシーの戦いが象徴的に示すのは、英領期の初期にしばしば見られる「協力者」の姿である。「協力者」とは、商人・軍人・官僚など、イギリスの支配に協力した人々を指す。人口比で見たらはるかに小国のイギリスが、大国インドをなぜ支配できたのかを考えるとき、この「協力者」の存在の意味するものは大きい。

民族主義と「開放性」の喪失

第一次世界大戦を契機として、インド経済は「開放性」を少しずつ喪失していった。この時期から戦間期にかけて、植民地政府が綿製品の輸入に対する関税率を高めていった。これは、本来的には財政的な理由に起因するが、この時期に、ガンディーの登場にともなう民族運動の盛り上がりが、インド系商人・起業家の動向を左右した。「国産品の使用(スワデーン)」という民族主義のスローガンは、まさに保護主義の政策と一途する。
加えて、1929年に始まる世界大不況の影響は、一次産品などの輸出の激減をもたらし、インドの経済界に輸出悲観論をもたらした。さらに、第二次世界大戦中には、経済統制が行なわれたが、これらの幾つかの要因が結びついて、独立後のインドの経済政策につながった。
インド独立後、ネルー首相の下で始まった「混合経済」体制では、輸出悲観論に基ずく
国内市場中心の輸入代替工業化戦略を実践した。こうして、1950年代以降、インドは、世界市場から撤退し、「閉鎖体系」に移行したのである。これは、まさに「開放体系」と目されたイギリス植民地支配下のインドに対する極めて否定的な反応であった。

約200年にわたるイギリスの植民地支配は、確かにインドにとってトラウマと言える経験であったから、このような反応には十分な理由がある。

しかしながら、その代償は小さくなかったと私は考える。さらに、英領期にインド洋世界の東西に展開していたインド系商人・起業家のネットアークも、旧英領植民地の各地域が国民国家形成を目指したこの時代に、分断を余儀なくされたことも銘記すべきであろう。

加えて指摘すれば、旧英領インドが独立した1947年こそ、ヒンドゥー教イスラームの対立を理由とする、インドとパキスタンの「分離」・独立の時点に他ならなかったのである。

1950年代以降、「閉鎖体系」いたインドの企業は、国際競争から保護されたと同時に、国際競争力を失っていくことになぅたのである。そして1990年代の初頭こそ、このような「閉鎖体系」から「開放体系」の復帰であったと言える。インド史を超長期で概観すれば、グローバル化した世界に対応でいる文化的遺伝子(ミーム)が、この地域には深く埋め込まれていることに気づかざるをえないのである。