じじぃの「科学・芸術_645_インド・ムガル帝国の滅亡」

History of India - The Mughal Empire 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=pVyMlWGKjok
ムガル帝国

ムガル帝国とは コトバンク より
インド,デリーを首都としたムスリム王朝 (1526〜1857) 。
1526年始祖バーブルがデリー・サルタナットの一つロディー朝のイブラーヒーム王をデリー北方のパーニーパットの地に破り,デリーを奪取して創始した。バーブルの跡を継いだフマーユーンは,39年アフガン系のシェール・シャーに敗れて,インドを追われペルシアに逃れていたが,シェール・シャーの死後,55年にインドに攻め戻り,帝国を再建した。56年に有名なアクバルが王位につき,ラージプート諸王朝と同盟関係を結ぶなど,政治の安定に努力し,ムガル帝国隆盛の礎を据えた。アクバルのあと,ジャハーンギール,シャー・ジャハーン,アウラングゼーブの3代にわたってムガル帝国の全盛時代が続き,その版図は南インドにまで広がった。
しかし 17世紀末にアウラングゼーブが,伝統的なイスラム思想の立場に立ったその頃から帝国の基礎は経済的にゆらぎだし,また諸地方に反乱が相次ぎ,その後帝国は衰退し,1739年にはペルシアのナーディル・シャーの侵略を受けるなどして,ムガル帝国は名目的な存在にしかすぎなくなった。 1857年インド大反乱を契機として,ムガル帝国は名実ともに滅亡した。

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『インドの歴史 (ケンブリッジ版世界各国史)』 バーバラ・D. メトカーフ、トーマス・R. メトカーフ/著、河野肇/訳 創土社 2006年発行
ムガル帝国の衰退とイギリス東インド会社 より
タイムマシンで1707年のインドを訪れた私たちの旅人は、ムガル帝国では近代前の他の同規模の政治システムと同様、あらゆる分野が階層的秩序によって維持されていることが理解できなかったであろう。軍隊と政治権力はムガル帝国だけの独占物ではなかった。ムガル皇帝自身、「王たちの中の王」、つまり数多くの君主たちの一人にすぎず、領土や権力をめぐる争いは日常茶飯事だった。このような政治システムは、闘争によって不安定な合意に達し、バランスを維持しながら存続するもでであり、有効に統治するには、単に闘争を終わらせるばかりでなく、闘争を判断する力がなければならなかった。しかし、18世紀の前半になると、ムガル帝国の権力は弱まり、かつてのムガル帝国に支配されていた諸勢力が勃興した。そして、それらの一勢力にすぎなかったイギリスの貿易会社が、18世紀の終わりまでには、みずからインド亜大陸を支配する体制を固めることになる。
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デリーのムガル宮廷では、ミール・タキー・ミール(1723-1810年)やクワジャ・ミル・ダルド(1720-85年)などの偉大な詩人たちが、ペルシャ語からの借用が多いウルドゥー語を使ってペルシャ風の詩を書いている。
首都デリーのムスリムに、最も大きな宗教的影響を与えた人物はナクシュバンティ派のスーフィー、シャー・ワリーウッラー(1703-62年)であった。彼はのちの近代インドで、イスラム運動の父と見なされることになる。当時、アラビア半島西部のヒジャーズを拠点として、学者たちが「ハディース(伝承されている予言者ムハンマドの言行録)」に従うための準備を再検討していたが、ワリーウッラーもそのメンバーだった。18世紀のインドでは、宗教における献身性があらためて注目されるようになり、神に帰依するためには絶対的に預言者ムハンマドの教えに従わなければならないとするイスラムの場合には、特にハディースがあらためて重視され始めた。当時の絶え間なく変動する社会・政治情勢のなかで、ハディースはまたムスリムの精神的基盤でもあった。
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インド各地で新しい地方国家が勃興していた頃、イギリス東インド会社は力を蓄え、のちにすべての勢力と対抗して勝利することになる。1600年12月31日に創設されてエリザベス女王の勅訴を得たこの会社は、他のいくつかのヨーロッパの貿易会社と同じように、「東洋」の富の獲得をめざす新規事業の1つだった。この会社が長期間にわたって力を発揮できたのは、株式会社という仕組みのおかげだった。