じじぃの「科学・芸術_167_トルコ史テーゼ・アーリア人」

Iranian Faces (Aryan) vs Turkish Faces 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bcn4R_eyFPA
Scheme of Indo-European

Aryan

『サピエンス全史(下) 文明の構造と人類の幸福』 ユヴァル・ノア・ハラリ/著、柴田裕之/翻訳 河出書房新社 2016年発行
帝国が支援した近代科学 より
モヘンジョ・ダロインダス文明の主要都市の1つであり、紀元前3000年紀に栄え、紀元前1900年ごろに壊滅した。イギリスは以前にインドを支配したマウリア朝も、グプタ朝も、デリーのスルタンたちも、ムガル帝国も、遺跡には見向きもしなかった。ところが1922年、イギリスが実地した考古学調査は、モヘンジョ・ダロの遺跡に注目した。それから、イギリスの調査隊は遺蹟を発掘してインド初の大文明を発見した。その文明のことは、インド人たちもそれまでまったく知らなかった。
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ヨーロッパの諸帝国は、科学との密接な協力により、あまりにも巨大な権力を行使し、あまりにも大きく世界を変えたので、これらの帝国を単純には善や悪に分類できないのではないか。ヨーロッパの帝国は、私たちの知っている今の世界を作り上げたのであり、そのなかには、私たちがそれらの諸帝国を評価するのに用いるイデオロギーも含まれているのだ。
ところが科学は、帝国主義者によってもっと邪悪な目的に使われた。生物学者や人類学者、さらには言語学者までもが、ヨーロッパ人は他のどの人種よりも優れているため、彼らを支配する(義務とは言わないまでも)権利を持っているとする科学的証拠を提供した。ウィリアム・ジョーンズがすべてのインド・ヨーロッパ語族は単一の古代言語を祖先とすると主張した後、多くの学者が、その言語を話していたのが誰かを突き止めたいと熱望した。最初期にサンスクリットを話していたのは、3000年以上前に中央アジアからインドに侵攻した人々で、自らをアーリアと称していたことに学者たちは気づいた。最古のペルシャ語を話す人たちは自分たちをアイリイアと称していた。そこでヨーロッパの学者はサンスクリットペルシャ語を(ギリシャ語、ラテン語、ゴート後、ケルト諸語とともに)生み出した原初の言葉を話していた人々は、自らをアーリア人と呼んでいたに違いないと推測した。インドやペルシャギリシャ、ローマの堂々たる文明を起こしたのがみなアーリア人だったのは、偶然の一致などということがありうるだろうか?

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『トルコを知るための53章』 大村幸弘、永田雄三、内藤正典/編著 赤石書店 2012年発行
世界最古の文明を築いたトルコ人 より
「トルコ史テーゼ」とは、いったいどんな内容なのであろうか? 要約すれば、それは「氷河期に中央アジアは水と緑にあふれる理想郷であった。そこの「原住民」であるトルコ人は、世界に先駆けて高度な文明を建設した。やがて、氷河が後退し中央アジアが乾燥化すると、彼らはこの高度な文明をたずさえて世界各地に移住した。東へ移動した人々は最古の中国文明を、南へ移動した人びとは古代インド文明を、南西に移動した人びとはシュメール文明を、さらに南へ下った人びとは古代エジプト文明を、さらに西へ移動した人びとはアナトリアヒッタイト文明を、さらに西へ移動した人びとはエーゲ文明を、そしてさらに、海を渡って西へ移動した人びとはエトルリア人となってローマを建設した、あるいは古代文明の建設に大きな役割を果たした」というものである。私は、最初、このテーゼを読んだときには、そのあまりの荒唐無稽さに驚いたものである。だが、一方では、なぜこのようなテーゼができあがったのだろうかという疑問と興味を覚え、少しばかり調べてみた。
まず最初に、私の脳裏をかすめたのは、19世紀末におけるヨーロッパ「国際世論」に見られたトルコ人バッシングに対するトルコ人エリートの心にわき起こった強烈な反発ではないかということである。なぜなら、彼らの中には19世紀以来の「近代化」によってヨーロッパに留学した経験を持つ者が少なくなかったからである。一方、ヨーロッパ内部では、まさにそのころから「進歩と文明のヨーロッパ」と「停滞と野蛮のアジア」というヨーロッパ中心主義的見方が定着していた。そして、そのもっとも身近な例が「トルコ」(オスマン帝国)であった。このころのオスマン帝国では、バルカン諸民族の民族的自立を求める運動が方々で湧きあがっており、これに対するオスマン帝国の弾圧がヨーロッパ世論の非難の的だったからである。そして、これが最高潮に達したのが第一次世界大戦中、1915年の東アナトリアにおける、いわゆる「アルメニア人虐殺」である。
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だが、さらに調べてゆくうちに、この法外な「トルコ史テーゼ」にも実はそれなりの「学問的根拠」があることが分ってきた。さきに言及した『トルコ史の基本路線』の執筆に使われた書物のほとんどすべては、いずれも当時のヨーロッパ諸国で出版された第一級の学術書だからである。しかも、その多くは戦前にすでに日本語にも翻訳されている。それによると、19世紀のヨーロッパでは中央アジアの「原住民」は誰かという論争が広く闘われていたことが分かる。そして、その多くは「アーリア人」であるという結論に達しているばかりか、そのアーリア人(すなわち白色人種)こそが世界で最も優秀な人種で古代の諸文明、とりわけ古代ギリシア文明という唯一の普遍的な文明を建設したのである。この「アーリア神話」だが、トルコ人」を「アーリア人」に置き換えれば、「トルコ史テーゼ」とほとんど同じである。
それでは、トルコ人エリートが全くの根拠なしに「アーリア人」を「トルコ人」に置き換えたのかというと、そうではない。ヨーロッパにおける中央アジアの「原住民」論争の中でトルコ学の専門家の一部に、それをトルコ人ないしトルコ・モンゴル系の「トゥラン人」説を主張している人達がいた。この点で、トルコ人エリートに最も大きな影響を与えた著作『アジア史序説』(1896年)の著者であるフランス人レオン・カオンは、すでに、1873年パリで開催された「第1回国際オリエンタリスト会議」で、その「ツゥラン人」学説を報告している。この「会議」はその後「国際アジア・北アフリカ人文科学会議」と名称を変えて現在なお継続している東洋学研究の中心的国際会議である。つまり、「トルコ史テーゼ」には、れっきとした「学術的」根拠があったのである。