じじぃの「歴史・思想_370_言語の起源・認知革命・文化・協働作業」

The Grammar of Happiness TRAILER

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XMtdYiXvTcQ

Piraha is a Brazilian language

地球ドラマチック「ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民」

2012/12/15 NHK Eテレ
今回はアマゾンの少数民族ピダハンのもつ不思議な言語と豊かな自然の恵みの中で暮らす彼らの文化を、ダニエル・エヴェレット氏とともに紹介していく。
ピダハンは400人ほどの民族で、長い間外からの影響を拒んできた。しかし、麻疹の流行にともないアメリカの伝道師を迎えることになった。そのひとりがダニエル宣教師である。ダニエル氏はピダハン語を習得するにつれ、ピダハン語には色を表す単語や数字がなく、過去や未来の時制もほとんど見られないことに気付く。そして、ピダハンの世界を知っていくうちにより重要なことを発見する。それは、ピダハンの人々が「ひたすら現在に生きている」ということである。番組の中で、「将来への不安と過去の後悔、この二つから解放されたとき、多くの人は幸福を感じることができる」という話があった。ダニエル氏は、「一日一日をあるがままに生きるピダハンの暮らしを私たちが学ぶべきなのかもしれない」と語っている。
ピダハンの人々の満ち足りた様子はダニエル氏の人生に大きな影響を与えた。ピダハンの人々がキリスト教の信仰がなくともすでに幸せなことを悟ったダニエル氏は、自らの信仰に疑問を抱き始めたのである。そして、ついには信仰を捨てる決断をし、言語学者としての仕事に没頭していくこととなる。
https://www.circam.jp/tvguide/detail/id=3765

『言語の起源 人類の最も偉大な発明』

ダニエル・L・エヴェレット/著、松浦俊輔/訳 白揚社 2020年発行

まずまず良いだけ より

言語は「まずまず良い」だけであり、実際の使用については文化的知識に依存していることのもう1つの例としては、「言語行為」――つまり、ある種の文化的目標を達成するための言語の用法がある。オックスフォード大学の特別研究員ジョン・オースティンと、その弟子でカリフォルニア大学バークレー校の哲学教授であるジョン・サールは、人間の言語についての議論に、言語行為という用語とその観点からの分析を導入した。人は誰かに話をするとき、つねに非常に特殊なタイプの行為に従事している。実は、人が話をするとき、そこではそれぞれ異なる多くの行為が同時に行なわれている。そしてオースティンは、発語(言われたこと)、発語内行為(意図されたこと)、発語媒介行為(言われたこと、意図されたことの結果として起きたこと)という3つのタイプの行為について述べた。3つそれぞれが、言語の性質と使い方を理解するにあたって重要であり、したがって言語の起源を理解するのにも重要である。そしてその3つとも、言語が始まって以来のその特色だったに違いない。
発語行為は話すことそのものだ。「ビルはどこにいる?」と尋ねるなら、その口の動きや肺からの空気の放出、あるいは使用する単語の配列と選択が、発語行為をなす。しかしこの発語行為を行なっている人は誰でも、同時に発語内行為も行なっている。発語内行為はその発話に持たせようと意図する作用のことだ。ある人が何かを約束するとき、聞き手に自分の約束が約束であることを認識してもらいたいと思っている。それこそが、人が自分の言った言葉に持たせようと意図する作用だ。人の言葉が達成しうる発語内行為には、陳述、命令、疑問、遂行的行為などがある。
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あらためて言うが、言語、心理、文化は共進化して、世界、人、文化への理解と目の前の出来事との間に文脈によるつながりを生み、言語の十分な解釈を可能にする。さらに、言語が異なれば、そのやり方にも大いに変化が見られる。ピダハン語での簡単なやりとりと、贈与についての談話を例に考えてみよう。
まずはピダハン語での挨拶を。
  Ti soxoa.
  「私はもう」
  Xigiai Soxoa.
  {わかった、もう」
あるいはこんなやりとりもある。
  Ti gi poogaihiai baagabogi.
  「私はあなたにバナナをあげる」
  Xigiai.
  「そうしていいよ」
さらに別の例。これは誰かと別れようとするところで、英語であれば「I am leaving now,good_bye」[もう行きますね、さようなら]とでも言うのであろう場面。
  Ti soxoa.
  「私はもう」
  Gixai soxoa.
  「あなたはもう」
  Soxoa.
  「もう」
ピダハンは、ありがとう、さようなら、こんにちはなどに当たる、言語学では社交的言葉と呼ばれる言葉を持たない。到着や出発の際の挨拶のような明白なことについて、その意味の大部分を文脈に決めさせる。また、ピダハンが「ありがとう」のような言い方をする必要を感じない理由の1つは、あらゆる贈り物がお返しへの期待を伝えているからだ。私が今日あなたにバナナを1本あげるなら、あなたは何か、たとえば魚の一切れなどを可能なときに私にくれるべきだ、というように。これは明言されていないが、文化的に前提されている。つまり「あげる」とは、おおむね交換の一形態なのだ。英語で言うgiftが意図されているなら、つまりお返しが期待されていないなら、こう言うことになる。
  Ti  gi    hoaga      poogaihiai baagaboi.
  私  あなた  反対予想    バナナ上げる[遂語訳]
  私は(あなたの予想に反して)あなたにバナナをあげる。
hoaga「反対予想」という単語の追加は、文全体を、要するに「私たちの普段のやり方とは違って、私はただあなたにこれをあげる」という意味にする。これは回りくどい言い方に聞こえるかもしれないが、これはピダハン語が持つ、西洋のたいていの文化とは異なる前提から生じる。いずれにせよ、ピダハン語の歴史的展開の中では、交換を目的とする語彙を発達させる必要はなく、逆にお返しの気持ちがない贈与を表す言葉の力の方が必要になったということだ。
ホモ・エレクトゥスが口頭でのコミュニケーションを始めた当初は、すべてを表す言語を発達させる必要はそれほどなかっただろう。要するに言葉は、複雑さを増す社会――ボディランゲージや、叫び声、手による合図、あるいは狩りの計画をする際に地面に棒で書いた何かを表す空間的図などとともにコミュニケーションを行なう社会――からおそらく出現したのだろう。ただここでは、どこかの地域のエレクトゥスもコミュニティーがどこかで何らかの素朴なシンボルを獲得した状態を考えてみよう。ここで1つのシンボルの考案者が、世界にあるすべての意味をそのシンボルに詰め込んだとは想定できない。それどころか、一揃いのシンボル群であったとしても――たとえその中にどれほど多くのシンボルがあったとしても、そんなことは想定できないだろう。背景の文脈にはあまりに多くの情報があり、われわれの記憶の中にある、解釈には用いるが実際には言わない(そしてしばしば自分が知っていることすら知らない、あるいは使っていることも知らない)情報も多すぎる。そのため、どれほどジェスチャーやイントネーションやボディランゲージで補強しようと、たんなるシンボルによってすべてを表現することはできない。したがって、言語が進化するにつれて、言語行為、間接的言語行為、会話、語りは、協働や、暗黙の(語られない)情報や、文化や文脈に大きく依存することは明らかだ。これまで言語が機能してきたのは、そのやり方でしかありえないからだ。