Countries Hello Song | Say Hello in Different Languages
ドイツで電話にでるときに日本語で「もしもし」はNG
日本では当たり前なのに海外ではマナー違反になってしまう行動
2017/11/22 テレビみた
・ドアノックはアメリカではマナー違反
・鼻をすするはドイツではマナー違反
・ドイツで電話にでるときに日本語で「もしもし」はNG
https://watchtvprogram.blog.fc2.com/blog-entry-870.html
文藝春秋 進化を超える進化
【目次】
序章
創世記
第1部 火
第2部 言葉
第3部 美
第4部 時間
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『進化を超える進化――サピエンスに人類を超越させた4つの秘密』
ガイア・ヴィンス/著、野中香方子/訳 文藝春秋 2022年発行
第2部 言葉 より
第7章 言語――それはいかにはじまり思考と人格と集団を形成したか
コミュニケーションは生物の基本的な特性であり、あらゆる生物が何らかのシグナルによって自らの存在をアピールしている。植物は土壌中の菌のネットワークを通して互いにメッセージを送り、タコやイカは皮膚の色を使う。イルカ、類人猿、イヌなどの哺乳類は人間とのコミュニケーションが上手で、原始的な言語をもっていると言われる。
しかし、人間の言葉は、伝達手段が何であれ、他の動物にないレベルの理解力を必要とする。チンパンジーは口笛を真似ることはできても、音楽的才能も、言語も持たない。彼らと人間のコミュニケーション能力には、大きな隔たりがある。たとえば、チンパンジーは5つの基本的な声しか持たず、それらはすべて状況が応じて使われる――チンパンジーが捕食者の存在を知らせる声を出すのは、実際に捕食者がいる時だけだ。その点が人間とは大いに異なる。わたしたちがつくり出したのは、ルーツに基づく、きわめて柔軟なコミュニケーションなのだ。
もっとも、言語は単なる情報伝達システムではない。言語は基本的に人間を人間たらしてているもの、すなわち思考である。言語がなければ、わたしたちは心の中で自分と対話することも、思考を整理したり系統立てたりすることもできない。わたしたちの感情は、自らがラベル付けしたものだ。失語症(脳卒中や脳の損傷によって、言語能力を失うこと)の人は、過去や未来に思いを馳せたり、物事のつながりを理解したり、議論の経過を追ったりできなくなる。
文字通り、現在に閉じ込められ、人間の基本的な思考プロセスができなくなるのだ。デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と語ったが、わたしに言わせれば、我に言語あり、ゆえに我あり、である。
言語はどうやって始まったのか
わたしたちの祖先がいつ話し始めたのかははっきりしないが、ネアンデルタール人と語り合うことはできただろう。彼らも、言葉を話せるように咽頭が進化していた。また彼らは、「言語遺伝子」と呼ばれる人間のFOXP2遺伝子によく似た遺伝子を持っていた。この遺伝子に変異がある人は、言葉を覚えたり発音したり、文章を理解したり作ったりするのが難しい。FOXP2遺伝子は他の多くの動物も持っているが、人間のものは歴史が浅く、チンパンジーのものとはDNAの2文字が異なる。FOXP2遺伝子の740の塩基のうち、わずか2つの塩基に起きたマイナーチェンジが、大きな変化をもたらしたようだ。FOXP2遺伝子の違いは、100を超える他の遺伝子の発現を、チンパンジーのものとは変えることがわかっている。その多くが脳の発達と機能に関与し、軟部組織の形成と発達にも影響することから、FOXP2遺伝子は認知と身体構造の両面で、発話と発音に関わっていると考えられる。研究者がマウスのFOXP2遺伝子をヒト型のものに改変したところ、そのマウスは頻繁に複雑な警戒声を発し、パズルを解く能力が向上した。ヒナ型のFOXP2遺伝子は、コミュニケーションと学習能力の向上という生存上の利益をもたらしたため、人間集団全体に急速に広まり、文化的発明である言語は、それと共に進化したのだろう。
人間は生来、文法と数千の単語を学習する能力を身につけており、それをスティーブン・ビンカーは「言語本能」と呼んだ。また、人間は、コミュニケーションへの強い欲求も持っている。二足歩行によって手が自由になり、他の動物にはできない身振り手振りができるようになった。
特に、「指差し」は人間ならではの行動だ。赤ちゃんが指差しの意味を理解するまでには数ヵ月かかるが、1歳になる頃には自ら指差しをして、最初の「会話」をする。指差しは驚くほど複雑な、人間固有の行動である。それは、他の人が何を考えているかを理解する高度な能力と、等しく重要な好奇心が必要とされる。指差しすることで、子どもは何かを伝えることができる。
たとえばバナナが欲しい時にそれを指差すのは「要求の指差し」、何かを説明し、情報を共有するために指差すのは「叙述の指差し」と呼ばれる。あの「あの風船を見て」というように経験を共有するための指差しは、「共感の指差し」だ。
言語は人格を形づくる
人は、話せるようになると、1つの言語に留まらなくなる。地球上の多くの人は少なくとも2ヵ国語に通じている。そして、それぞれの言葉を話す時、その人の脳と性格と行動は、微妙に変化する。言語という文化進化は、人間の生態を変えるのだ。
「異なる言語を使うとき、わたしたちは違う人間になる。言語は私たちを支配する。言語を変えると、ユーモアが変わり、ボディランゲージが変わる。わたしは、悲しみについて書くときはトルコ語を、皮肉を書くときは英語を使いたい」と、トルコにルーツを持つイギリスの作家、エリフ・シャファクは述べている。
言語は考え方を形成する。たとえば、花瓶が割れた、というアクシデントについて、英語圏の人は、日本語を話す人より、誰が、なぜ割ったかをよく覚えている。それは、英語では「ジミーが花瓶を割った」というように主体をはっきりさせる一方、日本語では主体には言及せず、「花瓶が割れた」と言いがちだからだ。言語の構造は、人間が現実をどう捉えるかに強く影響するため、現実や人間の本質は、言語によって大きく異なる。人が受け取り、反応する、言語という文化的インプットに応じて、脳は変化し、認知の配線はつなぎ変えられるのだ。
色の名称の進化を例にとってみよう。大半の社会では、まず明るさと暗さを定義することから初め、白と黒を名づけ、次に、必ず赤を名づける(おそらく、それが血の色だからだろう)。
英語の「red」は、かつては茶、紫、ピンク、オレンジ、黄色も含んでいた。そして、赤の次に名づけられるのは、通常、黄色か緑だ。しかし、青は、多くの社会で無視され、それらの社会の人々は英語を学ぶことによって初めて、青が色のカテゴリになることを知る。実のところ、多くの言語は、青を意味する単語を他の言語から借用している。一方、ドイツ語には青を表現する多くの単語があり、ドイツ語圏の人は、英語圏の人やナミビアのヒンバ族より、青の微妙に異なる色調を区別することができる。ヒンバ族は青を表す単語を持たず、緑と青の区別を難しく感じる。しかし、ヒンバ族には明暗を表す言葉が多く、ヒンバ族の子どもは陰影の濃淡の違いを、ヨーロッパ人よりはるかに上手に見分ける。
つまり、文明的発明である言語は認知に強く影響するので、脳が受け取る刺激(色彩では、光の波長)を言語化するかしないかによって、その刺激を認識するかどうかさえも決まるのだ。
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ある実験では、英語話者とドイツ語話者に、人が動いている映像を見せて状況を説明させた。
たとえば、女性が自分の車に向かって歩いている映像を見せた場合、英語話者は行動に注目し、たいていは「a woman is walking(女性が歩いている)」と描写した。一方、ドイツ語話者は、より広い視野に立ち、行動の目的まで含めて、(ドイツ語で)「a woman walks toward her car(女性が自分の車に向かって歩く)」と述べた。この違いの理由の1つとして、文法上のツールの有無を挙げることができる。ドイツ語と違って、英語には現在分詞の「~ing」があり、進行中の行動を表現することができる。そのため英語話者はドイツ語話者に比べ、あいまいな場面を描写するときに、目的まで述べる必要性がかなり低くなる。しかし、英語とドイツ語のバイリンガルの人に同じ質問をした場合、行動と目的のどちらを重視するかは、実験が行なわれている国によって決まる。どちらの言葉で尋ねても、バイリンガルの人々はドイツでは目的を重視し、イギリスでは行動を重視した。このことは、文化と言語が人の世界観にいかに大きな影響を与えるかを語る。
1960年代に心理言語学の先駆者、スーザン・アービン=トリップは、日本語と英語のバイリンガルの女性たちにいくつかの文章を完結させることを求め、言語による大きな違いを発見した。たとえば、「わたしと家族の希望を対立すると……」という文章の場合、彼女らは日本語では、「それはきわめて不孝なことだ」に類した文章で終わらせたが、英語では、「わたしは自分がしたいことをする」といった文章で終わらせた。このことからアービン=トリップは、人間の思考は言語のマインドセットの中で展開し、バイリンガルはそれぞれの言語に対して異なるマインドセットを持っていると結論づけた――突飛なアイデアだが、これはその後の研究で裏づけられ、多くのバイリンガルは、他の言語で話していると別人になった気がすると言う。