じじぃの「歴史・思想_332_ユダヤ人の歴史・十字軍による虐殺」

blood libel

What does 'blood libel' mean?

12 January 2011 BBC News
●'A dark time'
One of the earliest European versions of the blood libel story occurred in 12th Century England.
A dangerous, unfounded rumour that Jews had kidnapped a 12-year-old Christian boy, William of Norwich, and stabbed his head to simulate Jesus's crown of thorns was used to justify persecution of Jews.
https://www.bbc.com/news/world-us-canada-12176503

ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

十字軍のユダヤ人虐殺 より

キリスト教擁護論者たちは全体的に見て、キリストを殺害した先祖の罪ゆえにユダヤ人が罰せられるべきだとは信じていなかった。彼らは別の論点を提出した。すなわち、イエスと同時代のユダヤ人は、イエスの行なった奇跡を目撃し、預言が実現したのを目にしたのに、イエスが貧しく身分が卑しかったがゆえに彼を承認することを拒絶した。それが彼らの罪であった。しかしそれだけでなく、そのとき以来あらゆる世代のユダヤ人は聖書に描かれたのと同様な強情さを示し続けてきた。彼らは絶えず真実を隠し、それを不正に操り、証拠を隠蔽(いんぺい)してきたのだ。
聖ヒエロニムスは、預言書に書かれた三位一体への言及をユダヤ人が削除したと非難した。エズラ記とネヘミヤ記にあったその暗示をユダヤ人は取り除いたのだと聖ユスティノスは言う。タルムードを編纂したかつてのラビたちは真実を知っていて、隠された形でそれを記録した――それがキリスト教の論争家たちが自分たちの議論のためにタルムートを利用しようとした1つの理由であった。ユダヤ人の歴史家ヨセフスでさえイエスについて書いたが(これは実際には一連の写本がキリスト教の管理下にあったときの見え透いた改竄(かいざん)であった)、ユダヤ人はそれに対して顔を背(そむ)けた。それは無知ゆえではなかった。悪意であった。
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このキリスト教の論法の悲劇は、それが新しい種類のアンティ・セミティズムを直接導き出す結果になったことであった。ユダヤ人はキリスト教の真実について知ることができたのに、なおもそれを否認したというのは、ほとんど人間としてあるまじき行為のように思われた。この結果ユダヤ人は普通の人々とはまったく違うという観念が生まれ、この考えは彼らの食べ物、食肉処理、調理、割礼に関する法によって強化された。ユダヤ人は尻尾を隠しているとか、流血に苦しんでいるとか、特殊なにおいがするといった噂が流れた。こうした噂は彼らが洗礼を受けるとただちに消え失せたのだが、そして次には、これこそすべてを説明するものとして、ユダヤ人は悪魔を礼拝し邪悪な秘密の儀式で悪魔と交信するという報告が生み出された。
このようにして蓄積された反ユダヤ感情は、1095年のクレルモン・フェランにおける第1次十字軍開始の説教によって解き放たれるよりもいくらか前に確立していたようだ。十字軍に加わろうという熱狂的な波は、キリスト教徒が聖地で不当に扱われているという無数の話によって誘発されていた。これらの話の中の主たる悪漢はイスラム教徒であったが、ユダヤ人は裏切り者の助っ人としてその中に組み込まれていたのである。
それは、教皇側の改革とシト―修道会のような厳格主義の修道会を生み出したキリスト教原理主義の時代であった。多くの人々が世界の終末と第2のメシア来臨が迫っていると信じていた。人々は恩寵(おんちょう)と罪の許しをすぐにも得たいと願った。ヨーロッパ北西部における武装集団の集結によって、あらゆる種類の無法行為の機会が生まれ、秩序の崩壊がもたらされたのである。人々は十字軍参加に必要な支出に充てるため家財道具を売り払った。あるいは借金した。利子が帳消しになることを期待した。そうした状況下で、実用的な資本、つまり現金を保持する数少ないグループの1つであったユダヤ人は危険にさらされる立場にあった。熱烈な十字軍の兵士でも、自分の近隣にいるユダヤ人を攻撃しなかったというのは特筆に値する。彼らが自分たちと同じように普通の人々であることを知っていたからである。しかしいったん行軍すると、他の町のユダヤ人には自らすすんで攻撃の矢を向けた。熱狂と略奪品への欲望に駆り立てられたキリスト教徒の住民が、それに加わることもあった。地方の支配者たちは突然の猛威に動転し、統率力を失ってしまった。

血の中傷の始まり より

次のような反ユダヤ的な説話がある。すべてのユダヤ人はピラト(イエスの処刑に関与した総督)に向かって「彼の血の責任はわれわれとわれわれの子孫にある」と叫んだとき以来、ずっと痔(じ)に苦しんでいる。「キリストの血」、つまりキリスト教の教義を奉じることによってのみこの病から癒(いや)されるとユダヤの賢者たちは教えたが、ユダヤ人はこの勧告を文字通りに理解したのだ。治癒力のある過ぎ越しのパンを作るのに必要な血を得るために、彼らは毎年キリストの身代わりを殺さなければならなかった。ユダヤ教から改宗したケンブリッジ大学のセオボルトなる人物は、この話をウィリアム少年(ユダヤ人により儀式のために殺されたという)の殺人と結びつけた。スペインのユダヤ人議会は毎年儀式的殺人が起こるべき町をくじで選んでおり、1144年にはノリッチ(英国の町)がくじで当たったのだと主張したのである。こうして1つの犯罪から、儀式的サウジンと血の中傷という2つの別個ではあるが、相互に関係のあるユダヤ人に対する誹謗(ひぼう)が生まれた。
この話はユダヤ人の安全にとって、とりわけは破壊的であった。なぜなら、まさに儀式的な死という特質によって、ウィリアムがキリストの聖性および奇跡を起こす力という要素を獲得したからである。こうして奇跡が起こり、その一つ一つがユダヤ人の悪意を証明するものとなった。ローマによる中央からの統制はまだなかったが、民衆の叫びによって少年は聖人として承認された。しかも、この種の刺激的な聖人の遺体は、巡礼者や贈り物や寄付を呼び寄せることで、それを保管している教会に富をもたらした。それゆえユダヤ人居住地域の近くで不審な状況下で子どもが殺されるたびに、儀式的殺人の非難が向けられるようになったのである。1168年のグロスターの事件、1181年のベリー・セント。エドマンズの事件、1183年のブリストルの事件がその例である。
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キリスト論のもう1つの表明として、インノケンティウスは聖餐式の新しい祭儀を創始した。これはアンティ・セミティズムの新たな層を生み出すことになる。1243年、ベルリンの近くでユダヤ人は聖別された聖餐式用のぱんを盗んで、自分たちの邪悪な目的のために用いられたと訴えられた。この儀式も、ユダヤ人は真実を知っているのにそれに抵抗したというキリスト教の見解に合致した。ユダヤ人は聖餐式のパンがキリストの体であると確かに信じている。だからこそキリスト教徒の少年たちを誘拐して悪魔的な儀式で殺すのとまったく同様に、パンを盗んで拷問し、キリストの苦難をよみがえらせるのだ。すべての陰謀説がそうであるように、いったん想像に満ちた飛躍が行なわれると、あとは熱に浮かれた論理が続いていく。1243年以降ラテン・ヨーロッパ中で聖餐式のパンの盗難が報告された。法廷の判例によると、盗みが露見するのは、聖餐式のパンがそれ自身の苦悶によって奇跡を起こすからであった。つまり、空中に浮かび上がったり、地震を呼び起こしたり、障害者を癒(いや)す蝶になったり、天使と鳩を放ったり、あるいは最も普通には苦痛の叫び声をあげるか子どものように泣いたというのである。
こうした中傷のどれをとっても、それを正当化するような証拠は1つとして提示されていない。非難の一部は純粋な誤解の所産であったようだ。例えば、1230年にノリッチでユダヤ人が5歳の少年を強制的に割礼したと訴えられた。1234年についに事件の裁判が行なわれたとき、このユダヤ人たちは投獄され罰金を科された。そして翌年、ノリッチのユダヤ人に対する市民の暴力的な攻撃を呼び起こしたらしい。1240年頃、数人のユダヤ人がこの事件との関連で絞首刑にされた。このユダヤ人の家族の何人かが改宗者の子どもを教化していたというのが、いちばんもっともらしい説明である。しかしユダヤ人に対する非難のほとんどすべては完全な作り話で、教会によって真正な審問が行なわれたときはいつも、ユダヤ人共同体の無実が明らかになったのである。