じじぃの「歴史・思想_329_ユダヤ人の歴史・ムハンマド・イスラム教」

Abraham: Judaism, Christianity, & Islam

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=AXpslE677lw

Judaism, Islam and Christianity

THE ABRAHAMIC COUSINS: JUDAISM, CHRISTIANITY AND ISLAM

June 13, 2019 Aquila Style
These three faiths have more in common than meets the eye, writes Alayna Ahmad.
The three largest monotheistic faiths - Judaism, Christianity and Islam - are undoubtedly related. All claim their descent from the patriarch Ibrahim, who is referred to as khaliilaan (An-Nisa’ 4:125), from which comes his title of Khalilullah, or ‘friend of Allah’. The ties and relationships between these three religions have become lost or distorted over time. However, they are all children of the same parent and are equally capable of creating a harmonious coexistence in the world, just as they did for a brief period in history in Moorish Spain.
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ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

イスラム教異端 より

絶え間ない宗教的争いによって弱体化したビザンツ帝国は、他からの侵略を座して待っているようなものであった。611年、最初の侵略が起こる。ペルシャパレスチナへ侵攻し、3年後には20日間の包囲戦を勝ち抜いて、エルサレムを占領した。ユダヤ人はペルシャ軍の味方についたと非難される。しかしもしキリスト教徒たちが主張するように、ペルシャ人が援助の見返りとして、エルサレムユダヤの手に戻すことを約束したのが本当であったとしても、そんな約束は少しも守られなかった。いずれにせよ、ヘラクリオス帝が629年にエルサレムを奪い返すと、引き続きユダヤ人の虐殺が起こった。しかしこれが、パレスチナにおけるギリシャ勢力最後の活動となる。
同じ年、ムハンマドがメッカ征服を完了した。636年、ビザンツ帝国はヤルムクの戦いでイスラムの軍勢に決定的敗北を喫し、4年後にはイスラム教徒がパレスチナ全域とシリアのほとんどを占領してしまった。カルケドン派、単神論派、ネストリウス教徒、コプト教徒、セレウコス人、アルメニア人、ラテン人、ギリシャ人、サマリア人、そしてユダヤ人が、すべてイスラムの怒涛(どとう)に呑み込まれてしまったのである。
キリスト教と同様、イスラム教はもともとユダヤ教内部の異説から発している。教義があまりにも異なる方向へ発展したため、別の宗教になったのである。その後勢いを急激に伸ばし、独自の性格を形成した。アラビア半島においてユダヤ人の存在は、はるか古代から知られていた。南部では現在のイエメンで紀元前1世紀にユダヤ商人が活動していたが、北部すなわちヒジャーズの地では、さらに古い時代までさかのぼることができる。あるアラブの歴史的伝承によれば、ダビデ王の時代に早くもメディナへのユダヤ人定住が始まった。また別の伝承によれば、モーセの時代に起こったことだともいう。1956年に発見されたバビロニアの碑文によれば、ユダヤ人の宗教的共同体が紀元前6世紀にはヒジャーズに出現し、さらにそれより前から存在した可能性がある。しかし墓碑銘や壁画に残されたユダヤ人の名前によって、彼らの活動について確実に証明できるのは、紀元前1世紀以降である。
いずれにしても初期キリスト教時代、ユダヤ教はアラビア北部へ拡がり、同地の種族でユダヤ教に完全に改宗したものがあった。メディナ地方では、4世紀にユダヤ人の詩人がさかんに創作活動に携わった形跡がある。ユダヤ人の支配下にある国家が、この時期存在した可能性さえある。アラブの伝承によれば、メディナとその周辺には、約20のユダヤ部族が存在した。
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ムハンマドユダヤ教と別の道を取り、新しい宗教を発展させた。その端緒は、自分の解釈によってアラブ風に作り替えたユダヤ教を、メディナユダヤ人が受け入れる気がないと悟ったことにある。もしムハンマドがアラブ風の律法解釈すなわちハラハーを完成させる能力と忍耐があれば、結果は異なるものとなっていたかもしれない。しかしそれはありそうもなかった。ユダヤ教の顕著な特徴の1つは、遠隔の地で現在の文化に同化することなしに、ユダヤ共同体が生き延びるしたたかさである。いずれにせよ、ムハンマドの教義をユダヤ人は拒絶し、ムハンマドはその後意識的にイスラム一神教へ新しい要素を加える。
例えば安息日の性格を変化させ、その日付を土曜日から金曜日に移した。礼拝はエルサレムではなく、メッカに向けてなされることとなった。主要な祭礼の暦が変更された。最も重要な変化は、食物に関する戒律に見られる。ムハンマドユダヤ人の食物に関する禁忌が、彼らの邪悪な行ないに対する処罰に過ぎないと宣言し、廃してしまう。ただし豚と血液と屍肉(しにく)を食べてならないという掟は引き継がれ、食肉処理に関する決まりの一部も残された。
こうした変化のすべては、倫理と教義の基本的考え方においていかに重なる点が多くとも、ユダヤイスラムの共同体が1つとなることをほとんど不可能にした。さらに、イスラム教は自己の教義の先鋭化を押し進める。神学上の論争は暴力をともなう分派活動にまで発展し、この宗教の中心的な課題となった。これはキリスト教のバイトまったく同じである。
とりわけ、イスラム教はいち早く強制的な改宗に関する理論を作りあげ、実行に移した。それはユダヤ人が、ヨシュアダビデ、そしてハスモン朝の時代に行なったのと同じであった。ただしラビの指導下にあるユダヤ教は、この慣習を暗黙のうちに、しかし決然と捨てている。イスラム教は驚異的な速度で拡大した。中東を席巻し、地中海南部を包み込み、スペインとアジアの広大な地域にまで広まった。ギリシャとラテン世界でかろうじてその存在を保っていたユダヤ人共同体は、8世紀初頭になるとイスラムの神政体制にすっかり呑み込まれてしまう。
ある意味でイスラム教はユダヤ人が自ら生み出し、その上で拒絶したものがあったが、いつの間にか彼らの生殺与奪の権を握る存在となっていた。ただし今やユダヤ人は、自分たち独自の生存方法を編み出していた。タルムートと、独特の自治形態であるカテドクラシー(ラビがユダヤ社会を支配すること)が、それである。