Battle of Uhud (23 March 625) - Muslims of Medina vs Quraish of Mecca
ウフドの戦い
コトバンク より
625年、イスラムの預言者ムハンマドがメッカ軍と戦った戦争。
ムハンマドはメッカからメジナに移住 (→ヒジュラ ) したのち、メッカの隊商を襲いはじめた。その防衛のために派遣されたメッカ軍は、624年にバドルの戦いで撃破された。メッカの指導者アブー・スフヤーンは、その報復のためメッカの全軍約 3000名を率いてメジナに進軍し、ムハンマドはメジナの郊外ウフドの地でメッカ軍を迎え撃った。 625年3月 23日に行われた戦闘は当初ムハンマド側に有利であったが、メッカの騎馬隊の奇襲にあってムハンマド軍は混乱し、ムハンマドも負傷した。メッカ軍は報復に満足して引揚げ、ムハンマドは、かなりの犠牲を払ったが、メジナを守りきった。
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『世界史大図鑑』
レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行
真実が訪れ、虚偽は消え去った ムハンマドが神の啓示を受ける(610年ごろ)
ムハンマド より
預言者ムハンマドは570年ごろにメッカで、有力なクライシュ族の分家に生まれた。伝承によると、孤児だったムハンマドは、裕福な未亡人ハディージャとの最初の結婚によって経済的に安定した将来が約束された。
610年ごろから約20年間にわたって神の啓示――それをのちに書き留めたものがコーランである――を受けたムハンマドが、多神教や女児の間引きなどの慣習を禁じる説教をはじめたことから、従来のメッカの支配層とのあいだに亀裂が生じた。ムハンマドがメディナに逃亡した622年は、イスラム教の普及にとって重要な節目となった。メッカの外で受け入れられたことは、イスラム教の人気が伝統的な親族を中心とした仕組みを超えたことを示す。ムハンマドは精神的な指導者として認められ、この新しい宗教が直面した課題に巧みに対処したので、メッカにもどって2年後の632年に没するころには、その信者はアラビア全域にひろがっていた。
イスラム社会 より
新しく征服した土地はイスラム帝国の一部となった。そこに住む人々の多くがイスラム教徒に改宗したが、改宗しなかった場合も、キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒であれば、特別税を払うことで黙認された。イスラムは吸収した土地をさまざまな方法で変革した。帝国の古い体制を一層するだけでなく、宗教的コミュニティーという新しい存在を感じさせることによって、征服者と被征服者を結びつけた。
イスラムの学者たちは、数世紀のあいだ忘れられていたギリシャの哲学者や科学者の文献をよみがえらせてアラビア語に翻訳し、一方、美しいモスクが町という町を彩るようになった。ビザンツ帝国やササン朝ペルシャのもとで軽んじられていた地域は、いまや新しく活気に満ちた文明の中心にあった。
だが、成功はイスラム特有の問題ももたらした。都会化された土地を手に入れたことによって、カリフは結束力の強い信者たちを率いる軍の指揮官から、複雑な経済と社会をかかえた広大な地域の統治者への変換を迫られたのである。そのうえ、このころのイスラム教徒はまだ少数派で、完全には結束していなかった。
深まる亀裂 より
カリフの地位の継承をめぐる緊張から、イスラム帝国に大きな亀裂が生じた。ムハンマドの義理の息子アリーとシリアの総督ムアーウィアとのあいだの確執が内戦へと発展し、アリ―が殺害されると、661年にムアーウィアがカリフの地位に就いた。ムアーウィアの子孫たちはシリアの都市ダマスカスから帝国を統治したが(ウマイヤ朝)。アリ―の信奉者たちはその支配に反発し、アリ―の子孫からカリフを選出すべきだと主張した。アリーの息子、フセインが680年にカルバラーで殺害されると、アリ―の子孫にイスラム帝国を統治する権利があるとするシーア派とそれを拒絶する主流派スンニ派とのあいだの分裂は決定的となり、それが現在に至っている。
イスラムの結束には、別の形でもほころびが生じた。東西の国境からのメッセージがカリフの宮廷に届くのに数ヵ月を要する広大な帝国の統治は、不可能に等しかった。辺境の地に独立したイスラム王朝がいくつもでき、10世紀にはスペインやエジプトに、対立するカリフが誕生した。しかし、イスラム帝国の政治的結束力が崩れ、宗教的結束も損なわれたものの、ムハンマドの教えに対する人気はまったく衰えず、21世紀にはイスラム教の信者は全世界で約16億人にまで達している。