Life Inside China's Total Surveillance State
天安門広場に設置された監視カメラ
『ニューズウィーク日本版』2019年5・28号
ニュースを読み解く哲学超入門
哲学は必ずしも現実と無縁な象牙の塔で生まれたのではない。ナポレオン皇帝のドイツ侵略がフリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)の歴史観を、大英帝国の繁栄と矛盾がJ・S・ミル(1806-73)の経済哲学を、ナチスの蛮行がハンナ・アーレント(1906-75)の政治分析を、息苦しい管理社会がミシェル・フーコー(1926-84)の社会観察を生んだ。
危機が生んだ人類の英知こそが新たな危機に対する一番の処方箋となるだろう。
いま渦中にある米中対立を見て、ヘーゲルなら、そこに古代中国から欧米近代社会へと西進した、世界史における覇権のダイナミズムを読み取るかもしれない。
また中国における人権抑圧や、米大手IT企業GAFAなどのビッグデータ活用による監視社会はどうだろうか。そうした「のぞき見」横行に対して、フーコーなら個人のプライバシー侵害だけでなく、人間の「動物化」を指摘するだろう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/05/post-12161.php
ミシェル・フーコー(1926-84) より
フランス生まれの哲学者。独特の手法とスタイルによって、哲学の新しい領域を開いた。政治学、法律学、経済学、文学、言語学、医学、生物学、教育学などの膨大な文献を縦横無尽に解読。
これらの学問が生まれた過去の時代特有の、現代とは断絶した「知の構造(エピステーメー)」を探求した。そうして現代と異なる歴史の非連続性を明るみに出すことで、現代の知を相対化する。初期の代表作『言葉と物』では「知」の解体、ひいては知的存在である人間自体の最期を告知した。
HIVにより死亡。セクシュアリティーを歴史的に考察した『性の歴史』が遺書となった。この半世紀の人文科学と社会科学の動向に最も大きな影響を与えた1人である。
安全のためなら監視は許される? より
現代の情報技術は、膨大な数の人間の情報を、当人には必ずしも知られることなく一度に収集することを容易にした。情報収集のこの形態は、一般に「大量監視」と呼ばれている。人工知能(AI)を活用することで可能になった未来の予測や問題の解決の多くは、大量監視で得られたビッグデータ」を基礎とする。大量監視にそれなりの効用があることは事実だ。
ただ、それとともに国家と民間企業による監視が生活の隅々まで浸透した。ユビキタス(偏在的)で無遠慮な「のぞき見」が可能になったせいで、民主主義社会の基礎が腐食し始めていることもまた確かだ。
フランスの思想家ミシェル・フーコーは『監獄の誕生――監視と処罰』(邦訳・新潮社)で、刑務所改革案「パナプティコン」に言及した。見えざる他者によって一方的に、一挙手一投足がことごとく監視のまなざしにさらされることで、人間の内面に惹き起こされる変化を主題として取り上げる。
フーコーによれば、見えざる他者のまなざしから逃れられないことを自覚すると、人間はこのまなざしを進んで引き受け、これに従って自己規制を始める。他者のまなざしを内面化することで、人間は責任ある「sujet(シュジェ)」――フランス語で「主体」「臣下」の両方の意味を持つ――となる。
大量監視とは目には見えない何者かが、私たちにとって好ましいとは限らない目標の実現を目指すものだ。たいていは秘密裏に、現実と仮想の両空間で、一方的まなざしをたえず私たちに向け、私たちの情報を集める。フーコーの指摘が妥当なら、大量監視は自由の腐食を促し、民主主義を空洞化させる有害なプロセスだ。
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既に16世紀、フランスの法律家エティエンヌ・ド・ラ・ボエシは『自発的隷従論』(邦訳・筑摩書房)で独裁のもとでの支配者と被支配者の共犯関係を指摘した。大量監視はこの共犯関係を、形を変えて現代に再現している。
のぞき見を擁護する意見がないわけではない。安全とプライバシーは両立が難しく、監視は必要悪。やましいことがなければ、のぞき見を恐れる必要はない、という主張だ。
だが私たちがのぞき見から守ろうとするものは、やましいことではない。自分の生活の細部をあけすけに語ることには抵抗を覚えない人も、自宅のすべての部屋に監視カメラが無断で設置され、行動が逐一記録され公表されることは望まないはずだ。「丸見え」となることで、自分の人生を織りなす自由が奪われるからだ。
「自分を編集する自由」は、人間を他の生物から区別する標識となる。大量監視という名の無遠慮なのぞき見がこの自由を奪うとき、社会は動物園となる。ことによると、既に私たちは飼育され、生かされているにすぎないのかもしれないが。