じじぃの「科学・芸術_814_世界の文書・メイフラワー誓約」

The Mayflower Compact

『図説 世界を変えた100の文書(ドキュメント):易経からウィキリークスまで』

スコット・クリスチャンソン/著、松田和也/訳 創元社 2018年発行

メイフラワー誓約 (1620年) より

未開で無法のアメリカの地に上陸する前、メイフラワー号の乗客たちの過半数が誓約を作った。これに署名した者は「政治的な市民団体に結合」され、「植民地の全体的善に最も良く合致し都合の良いと考えられるように、公正で平等な法、条例、憲法や役職を作る」――法の支配の下に共に生きるという合意である。

嵐の大西洋3000マイルを横断したメイフラワー号の航海は決して容易なものではなかった。さらに悪いことに、晩秋に北アメリカに辿り着いた時、船長はそこがケイプ・コッドであることに気づいた。勅許に記されているハドソン川河口からは遠く隔たった場所である。だがもう一度海へ出る危険を冒すよりも、船長はその地に上陸することを選んだ。
計画の変更は多くの問題を生じさせた。乗船していた102人は、次に為すべきことに関して見解が大きく分かれた。41人のイングランドピルグリム――「聖人(セイント)」を自称するカルヴァン主義分離派の家族――は、迫害を逃れるためにヨーロッパから逃げてきた人々であった。残りの者(ピルグリムは彼らを「異邦人(ストレンジャー)」と呼んだ)にはイングランドの商人、職人、熟練労働者、年季奉公人、そして4人の幼い孤児などが含まれていた。
「異邦人」の一部は、上陸さえしてしまえばもはや如何なる法も従う必要はない、何故なら海事法もヴァージニア会社の管轄権もそこには及ばないからだ、と主張した。だから下船した瞬間、もはや如何なる法の支配下にもなくなるのだと。例えば奉公人はもはや自由の身である。そしてこの主張にはさまざまな言外の意味が含まれていた。見通しは暗澹たるものだった。
ピルグリム」の指導者たちは何らかの代替的な政府的権力の早急な樹立の必要があると気づき、自分たちの間で文書による誓約を作成することを船上の成人男子のほぼ全員(「ピルグリム」も「異邦人」も等しく)に納得させた。
ピルグリム」はその文書の基盤を分離派教会の盟約の中にあった社会契約論の思想に置き、この合意が「開拓地のより良き秩序と維持のために……公正で平等な法」を建てるための「政治的な市民団体」を形成する、そしてこれに署名した者には「当然の服従と従順を約束する」、と謳った。
船室に押し込められた41人の成人男子がその文書に署名した。歴史家が<メイフラワー誓約>と命名した彼らの合意はアメリカ史上初の、そして最もよく知られた自治の表明となっている。
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この誓約の手稿原本は亡失したが、さまざまな版の本文と署名者の一覧は後に初期の歴史資料に何度か掲載された。最も有名なものはメイフラワー号の乗客であるウィリアム・ブラッドフォードが書いたもので、『プリマス開拓地について』という彼の日誌に収録されている。彼の手書きの原稿に基づくこの日誌は1856年になって漸く出版された。ブラッドフォードの原稿はマサチューセッツ州立図書館の特別貯蔵室に収められている。