じじぃの「歴史・思想_31_合衆国史・独立宣言文」

United States of America (1776) "Call to Muster & Battle Cry of Freedom" (1862)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7zX4WyaSt5M

アメリカ合衆国独立宣言文

『植民地から建国へ 19世紀初頭まで シリーズアメリカ合衆国史①』

和田光弘/著 岩波新書 2019年発行

独立宣言が意味するもの より

独立について態度を決めかねている人々が依然多かったなか、フランクリンの勧めでイギリスからアメリカに渡ってきたトマス・ペインが、1776年初頭に匿名で出版した小冊子『コモン・センス』は大きな衝撃を与えた。同書は世界史の事例を引きながら、聖書にまでさかのぼって王政や世襲制の危険性を説き、イギリス国王の統治の正当性を否定する。さらに、「野獣でもその子をむさぼり食おうとはしない」(小松春雄訳)のに、今や本国は植民地を押しつぶそうとしており、独立はやむおえないだけでなく、多くの利点があると論じたのである。
この小冊子は版をを重ね、その年だけで少なくとも10万部を売り上げ、さらに新聞に転載されたり、筆写されたりして広く読まれた。また当時は本などの文章は音読することが一般的で、それを聞くことで、たとえ字が読めない人でも内容を知ることが可能であり、より広範に、独立の世論形成に寄与した。
ただ、大陸会議が最終的に独立に踏み切る決断を下したのは、本国の軍事的攻勢によるところも大きい。ボストンから撤退してカナダで待機していたイギリス軍が、本国からの増援を得て大軍となり、海路アメリカへと迫りつつあった。指揮を執るのは、国王の縁戚でもある2人の兄弟、リチャード・ハウ提督とウィリアム・ハウ総司令官である。
事態が切迫するなか、大陸会議は議論のすえ、独立宣言草案作成のための委員会を設置する。6月末にはイギリスの大艦隊がニューヨーク沖に到着したとの知らせが届いた。決断の時は迫りつつあった。7月2日に独立の決議、そして4日に独立宣言が採択されたのである。したがって独立宣言は、本国に対しては宣戦布告、各植民地に対しては臨戦態勢づくりの要請を意味した。
この独立宣言文は、すでに述べたように、のちの第3代大統領トマス・ジェファソンがおもに起草したもので、大きく3つの構成要素からなる。まず前文は、イギリスの哲学者ジョン・ロックが『統治二論』(1690年)で論じたように、自然法にもとづく革命権を主張する。
つづく本文(主文)では、ジョージ3世の悪政を4範疇28項目にわたって順序よく指摘して断罪する。そして結語で、本国からの分離・独立を論理的帰結として高らかに宣言するものである。
     ・
さて7月4日の採択を受けて、独立宣言が直ちに印刷され、各地に届けられて兵士や民衆の前で読み上げられたり、新聞に転載されたりした。独立宣言文は人称代名詞を多用して、「彼[国土の意]は……をした」と列挙することで本国との抗争をわかりやすく擬人化して伝え、人々に愛国派の視点を共有させた。これに応じた人々のなかには、国王の肖像画や騎馬像を破壊することで、儀礼的な「王殺し」をおこなう者もあった。
現在、首都ワシントンの国立公文書館に展示されている独立宣言書は、羊皮紙に手書きで青書され、8月2日から各植民地の代表たちが署名して出来上がったものである。大陸会議議長を務めたマサチューセッツの大富豪のジョン・ハンコックは、国王ジョージ3世がメガネなしでも読めるように大きく署名したという。反逆罪での処刑も覚悟しつつ、独立宣言へ自らの名を記した56名の「署名者」たちは、アメリカ史上、特別な存在として称えられている。