じじぃの「歴史・思想_33_合衆国史・合衆国憲法」

George Washington and the Constitutional Convention by Professor William B. Allen

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MkD5bgjxWAc

1787年憲法制定会議

『植民地から建国へ 19世紀初頭まで シリーズアメリカ合衆国史①』

和田光弘/著 岩波新書 2019年発行

憲法の制定と批准の軌跡 より

会議(1787年5月25日から始まった憲法制定会議)で最も精力的に議論を展開したのが、のちの第4代大統領ジェイムズ・マディソンである。当時36歳で独身のこの若きヴァージニア代表は、大胆な改革プランを提起し、議事をリードした。「合衆国憲法の父」たる彼は、のちに憲法の重要な修正にもたずさわることになる。
彼が起草したヴァージニア案は、各邦の人口比にもとづく議員数からなる議会の開設や、強い権限を有する中央政府の設立をめざすものであり、これが議論の基調となった。ただしこの案は大きな邦に有利だったため、小さな邦の利害を酌(く)み、各邦平等の代表権を主張するニュージャージー案が提出され、対抗した。議論の末、両者のバランスを取ったコネティカット案が容れられ、連邦議会の上院(言語は古代ローマ元老院に由来)を各邦(州)平等に2名、下院(代議員)を人口比とする合意が成立した。前者の任期は6年、後者は2年とされた。
また議員選出の基準となる各邦の人口の計算では、黒人奴隷を多く擁する南部に有利にならないよう、黒人奴隷1人を白人の「5分の3」と数えることが決まった。以前に、連合会議への拠出金の計算方式としてこれが提案されており、その例に倣ったのである。
一方、奴隷貿易については、すでにほとんどの邦で禁止・停止されていたが、連邦議会が1808年よりも前に禁止してはならない旨、定められた。ただしこれらを規定する条文などでは「奴隷」の語は巧みに回避され、「いずれかの州が受け入れを適切と認めた人々」、「その他すべての人々」などといった湾曲的な表現が用いられている。「建国の父たち」は、忌わしい語を格調高い文章のなかにいれることを避けたとも考えられよう。合衆国憲法に「奴隷制」の語が初めて登場するのは、1865年、奴隷制廃止を定めた憲法修正第13条においてである。
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羊皮紙に清書された合衆国憲法の原本には、議場からすでに去っていた者や、最後まで草案に反対していた者を除いて、39名の代表が署名をした。フランクリンもむろんペンシルベニア邦代表の一人として署名している、彼は、ワシントンが坐っていた椅子の背もたれに刻まれた太陽の意匠について、議事のあいだじゅう、それが昇りゆく太陽なのか、沈みゆく太陽なのか気になっていたが、今、成案を得て、昇りゆく太陽であることがわかったと述べたという。ただしこの時、政党の発生は皆の想定の外にあった。忠誠派が排除され、愛国派のみが支配的な状況だったからである。
ワシントンの日記によれば、9月15日土曜日に「会議の仕事を終了」し、日曜日をはさんで17日月曜日には「会議に参集し、憲法は11の邦およびニューヨークのハミルトン大佐による満場一致の賛同を得た。……仕事納めとなり、代表たちは旅籠(タバーン)に席を移して一緒にディナーをとり、互いに心より別れを惜しんだ」。こうして出来上がった憲法はただちに連合会議に送られ、受理されたのち、各邦の批准に回された。
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そもそも独立宣言が出された1776年は、日本では江戸時代の中葉をかなり過ぎたころ、いわゆる田沼時代に当たる。こうしてこの独立革命期に制定された合衆国憲法は、その後、奴隷制の廃止や女性参政権の確立など、現在まで計27条もの修正が加えられている。時代に合わせて柔軟にこの国の形を変容させつつも、たとえば、ほぼ徳川幕府終焉の時期に当たる南北戦争下で大統領選挙が実施されたように、一貫して揺らぐことなく、国の根幹であり続けているのである。