じじぃの「人の死にざま_1767_コートニー・ホイットニー(日本国憲法・米国軍人)」

日本国憲法誕生 全編 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=L4xiKi2pHLM
Courtney Whitney

コートニー・ホイットニー ウィキペディアWikipedia) より
コートニー・ホイットニー(Courtney Whitney,1897年5月20日 - 1969年3月21日)は、アメリカ合衆国の弁護士・法学博士。
第二次世界大戦におけるアメリカ陸軍の将官。戦後、占領軍・連合国軍最高司令官総司令部民政局の局長時代に、憲法草案制定会議の責任者として、日本国憲法草案作成を指揮した。

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『教科書が教えない歴史(3)』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
米国の”素人”が1週間で作った憲法 より
1946年(昭和21年)2月4日午前10時、GHQの民政局員25人は会議室に呼び集められました。全員を前にしてホイットニー局長は「これから1週間、民正局は憲法制定会議の役割をはたすことになるだろう」と言いました。そして、今の日本で最も急がなければならない問題は新憲法の制定だ。しかし、日本側が作成した草案はまったく不満足なものなので(マッカーサー)最高司令官は自分が介入する必要があると判断し、日本国民のための新しい憲法を起草するという歴史的な意義ある仕事を民政局に任せたと述べました。
さらにホイットニーは黄色い紙に書かれた「マッカーサーノート」をゆっくりと読み上げ、憲法制定作業はリンカーン誕生日の2月12日までに終えること、作業は極秘にすること、秘密を守るため暗号を使いことなどを指示しました。出席していた民政局の人びとは一様に驚き、興奮していました。
民政局の「憲法制定会議」の組織はケーディス次長(当時40歳)、ハッシー海軍中佐(44歳)、ラウエル陸軍中佐(42歳)、エラマン嬢で構成される運営委員会が全体をまとめ、その下に8つの委員会を置きました。委員会はそれぞれ立法、行政、人権、司法、地方行政、財政、天皇・条約、前文の各分野を担当します。25人のメンバーの内訳は陸軍将校11人、海軍士官4人、軍属4人、秘書を含む女性6人で、弁護士資格を持つ人が3人いましたが、憲法の専門家はただ一人としていませんでした。
当時のメンバーは、ホイットニーの話を聞いたときの印象をおよそ次のように述べています。(西修『ドキュメント日本国憲法』より)
「とても興奮しました。しかし、同時に私は、このようなことはとても不幸なことだと思いました。なぜなら、外国人によって起草された憲法は正当性を持たないと思ったからです。私は、民主主義を理解している日本人を何人か知っており、彼らに自国の憲法を作らせるべきだと思いました。そして、そのことを上司に述べたのですが、採用されませんでした」(行政委員会・エスマン陸軍中尉)
「興奮しましたが、私には憲法を作る能力も知識もなかったので不安でした」(立法委員会・ホージ陸軍中佐)
人権委員会のメンバーだったベアテ・シロタ・ゴードン女史(当時22歳)は、日本国憲法一四条(法の下の平等)と24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)の起草者としてよく知られています。彼女は世界的ピアニストとして有名な父レオ・シロタとともに来日して、少女時代の10年間を日本で過ごした経験のある女性です。
民政局に勤務する前にアメリカの雑誌社に勤めた経験があり日本語にも通じていたシロタは、憲法草案作成のために図書館に行って資料を集める役目を果たしました。草案の作成が極秘でしたから、一ヵ所だけだと怪しまれるのでわざわざいろいろな図書館を回って資料を集め、それを民政局に持っていきました。
「そうしたら、みんなほかの人たちも使いたかったんです。あの人たちだって憲法の専門家じゃなかったのでしょう。だから、みんなそれを使いたかった。それだけで、すぐ天才になりました」。これは、最近のインタビューにこたえたシロタの言葉です。
日本国憲法草案は、憲法にはほとんど素人といえる人々の手によって2月10日にできあがりました。たった1週間の憲法制定作業でした。