じじぃの「神話伝説_186_マルドゥク神(バビロニア)」

エサギル神殿 (バビロニア

古代オリエントの神々-文明の興亡と宗教の起源』

小林登志子/著 中公新書 2019年発行

マルドゥク神、最高神に成長 より

マルドゥク神は天候神とはおそらく無縁の出目からはじまり、バビロニア最高神になった神である。しかも、前3000年紀のシュメル人、アッカド人が活躍していた時代からの最高神ではなかった。バビロン市の都市神マルドゥクが確認できるのは、バビロン第1王朝のハンムラビ王治世からである。ハンムラビのある王碑文では、「マルドゥク神、偉大な主人(ベル)、神々に豊饒を与えしお方」と記され、ハンムラビ自身は「マルドゥク神を満足させる牧人」「マルドゥク神の愛する牧人」と称している。
ハンムラビ治世晩年に編纂されたといわゆる『ハンムラビ「法典」』序文には、マルドゥクが高められたことを物語る重要な証言がある。
  アヌム、崇高なる方、アヌンナック諸神の王(および)エンリル、天地の主、全土の運命を決定する方が、エアの長子、マルドゥクに全人民に対するエンリル権(王権)を割り当て、彼(マルドゥク)をイギダ諸神のなかで偉大なる方とし、バビロンをその崇高なる名で呼び、四方世界でそれを最も優れたものとし、その(バビロン)ただなかでその基礎が天地の(基礎の)ごとく据えられた永遠の王権を彼のために確立したとき、
                     (中田一郎訳『ハンムラビ「法典」』)
シュメル・アッカド最高神であるアヌ神とエンリル神がマルドゥクとバビロンに世界の支配を委ねたと書かれている。だが、ハンムラビ治世におけるマルドゥクは神々の世界でのまだ成りあがり者にすぎず、神々の王としてバビロニア全土で広く認知されるには、なお数世紀の時間を要することになる。

大きくなったマルドゥク神像 より

ネブカドネザル2世は2度にわたって地中海沿岸のユダ王国(前922頃-前587年頃)を攻撃した。前598年にはエルサレムを包囲するも、ヨヤキン王(在位前598-前597年)がすぐに降伏したので、エルサレムを破壊することはとどまった。それでも神殿を荒らし、王以下約1万人がバビロニアへ連行された。これが第1次「バビロニア捕囚」である。
この時ネブカドネザル2世はゼデキヤ王(在位前596-前586年)を後継者に任命し、王国を存続させたが、エジプトの支援により反旗をひるがえす。またしてもネブカドネザル2世は親征し、前587年にエルサレムを包囲し、翌前586年には城壁を破壊し、王国を滅ぼす。そして生き残った住民の多くを強制的に連行した。これが第2次「バビロニア捕囚」である。
ここでもまたユダ王国の滅亡は、王と民との背教に対してのヤハウェの罰との考え方が示されている。『旧約聖書』「列王記」下24章19-20節には「彼はヨヤキムが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついに御前から捨て去られることになった」と、記されている。ここでの彼はゼデキヤを指す。
強制的にバビロンに連れてこられた人々はバビロンの繁栄を目の当たりにしたが、好意的に見ることはできず、憎しみの眼差しを向けることとなり、バビロンといえば悪しき都市の代名詞となった。
当然のことながら捕囚民は「ベル」マルドゥク神像も好意的に見る事はできなかった。だが、マルドゥクの祭儀は新バビロニア王国時代に最盛期を迎えていて、こうした状況がアケメネス朝の滅亡まで続いた。壮麗に修築されたエサギル神殿にはマルドゥク神像が対偶神像とともに祀られていた。
ところで、王や神官だけでなく、民衆も神像を見ることができたようだ。新バビロニア王国時代には、月例祭のおりに神殿にはいることを許されていたという。