じじぃの「神話伝説_84_バベルの塔(バビロン)」

Babylon City 3D 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BU4CujyYEps
バビロン (600 BC)

バビロン 復元図

バベルの塔 ウィキペディアWikipedia)より
バベルの塔は、旧約聖書の「創世記」中に登場する巨大な塔。
神話とする説が支配的だが、一部の研究者は紀元前6世紀のバビロンのマルドゥク神殿に築かれたエテメンアンキのズィクラト(聖塔)の遺跡と関連づけた説を提唱する。
実現不可能な天に届く塔を建設しようとして、崩れてしまったといわれることにちなんで、空想的で実現不可能な計画を比喩的に「バベルの塔」という。
バビロン捕囚 ウィキペディアWikipedia)より
バビロン捕囚は、新バビロニアの王ネブカドネザル2世(在位紀元前605年 - 紀元前562年)により、ユダ王国ユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられた事件を指す。

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『聖書を読みとく―天地創造からバベルの塔まで』 石田友雄/著 草思社 2004年発行
バベルの塔 (一部抜粋しています)
「バベル」とは、ヘブライ語で「バビロン」のことである。当然、各国語の翻訳聖書は、「バベル」を「バビロン」と音訳する。ところが「ニムロド伝説」と「バベルの塔物語」に限って、「バベル」という地名をそのまま残す(「創世記」10章10節、11章9節)。
それにしても「民族表」(10章)に続く「バベルの塔物語」(11章1節〜9節)は、一見、前後の文脈とは無関係な孤立したエピソードであるように見える。民族表が「氏族」「言語」「地域」に従って、諸民族が世界中に離散して移住している状況について報告した後で、この物語は「全地が1つの言語、共通の言葉であったとき」(11章1節)と語り始めるからだ。
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バビロニア天地創造物語「エヌマエリシュ」は、バビロンの主神マルドゥクのために、神々がバビロンにエサギラ神殿を建てたときの様子を次のように伝える。
 「1年かけて煉瓦を造り
  2年目になったとき、
  彼らはアブス(原始の淡水を湛える無限の空)に向かって
  エサギラ神殿の頂を建て上げた」
なお「エサギラ」とは、「頭を上げた家」という意味である。またエサギラ神殿には「エテメンアンキ」という名の塔(ズィクラト)があった。「天地の土台の家」という意味である。
紀元前7世紀末の王室碑文によると、マルドゥク神は、あるバビロニア王にエサギラ神殿の修復を命じ、神殿の土台を冥界の奥深く堅く定め、その頂を天と等しくするよう要求した。これらの文章は、エサギラ神殿がバベルの塔物語の「頂を天に置く塔」と同様のコンセプトで建設、修復されたことを物語っている。
したがって、本来、この巨大な高い塔(ズィクラト)は、神々の意志に従ってバビロニア人が神殿に併設したものであった。紀元前5世紀にバビロンを訪問したギリシャの歴史家ヘロドトスは、神々の降下を待つ女祭司が高い塔の上で徹夜している、と報告する。この高い塔は、天界に住む神々が地上に降下するときの中継点だったらしい。
ところが、聖書のバベルの塔物語によると、バビロニア人はまったく別の目的のために、天に届く高い塔を建設しようとしたことになる。それは、シンアルの地の流域平野に住み着いた人間の集団が離散しないように、自分たちの名声を高めることだった。言い換えれば、バビロンの名声の下に人々を統合することを目指したプロジェクトだった、と言うのである。
バベルの塔物語の後半は、前半で語られたバビロニア人の野心に対するヤハウェの言葉と行動を伝える。
 「ヤハウェは降って行き、人間の子らが建てた町と塔を見た。そしてヤハウェは言った。『見よ、彼らは1つの民であり、全員、1つの言葉をもっている。彼らがし始めたことがこれだ。今や彼らがしようと思うすべてのことで、彼らに不可能なことは何もないだろう。さあ、わたしたちは降って行き、あそこで彼らの言葉を混乱させよう。そうすれば彼らは互いの言葉がわからなくなるだろう』
  ヤハウェが彼らをそこから全地の面に散らしたので、彼らはその町を建てるのを止めた。そこで、その名をバベルと呼んだ。ヤハウェがそこで全地の言葉を混乱させた(パラル)からである。そこからヤハウェは全地の面に彼らを散らした」(11章5節〜9節)
神名ヤハウェから明らかなとおり、この物語の語り手はヤハウィストである。実際、ヤハウェの言動は、同じ語り手の「エデンの園失楽園物語」の結末に類似している。それによると、「見よ、人間は善悪を知って、わたしたちの1人のようになった。今や彼はその手を伸ばして、生命の木からも取って食べ、永遠に生きるようになるかもしれない」と考えたヤハウェ神が、楽園から人間を追放し、回転する剣の刃を置いて、人間が生命の木に近づけないようにした(3章22節〜24節)
2つの物語の共通点は、神々のようになろうとした人間、あるいは神々の住まいである天に到達しようとした人間に対して、ヤハウェが行動を起こしてそれを阻止したことである。その際に、ヤハウェが「わたしたち」と複数形で語ることも共通している。天界の王ヤハウェが、天使や天の怪獣に命じているのだ。
ヤハウィストは「巨人・英雄伝説」(6章1節〜4節)でも、ヤハウェが類似の行動をとったエピソードを語る。すなわち、神々の息子たちと人間の娘たちが交わって巨人(ネフィリス)が生まれたとき、ヤハウェは人間の寿命を120歳に限定して、天界の不死の遺伝子を人間が入手することを阻止した。
これら3つの物語は、人間という生きものは、死すべき存在に定められたことに満足せず、地上から天界に昇って「神垣のように」不死・万能の存在になろうとする欲望に取り憑かれているが、ヤハウェは決してそれを許さない、というメッセージを伝えている。
しかし、バベルの塔物語は、さらに一歩進めて、古来、人間と人間集団を駆り立ててきた名誉欲、権力欲、征服欲志向といった欲望、一言で言えば覇権主義を、天界の王ヤハウェに対する反逆とみなしている。しかも、古代オリエント世界の覇者バビロンを名指しで批判する。これは、実在の民族カナンの豊饒祭儀を拒否したノアの呪い(9章25節〜27節)と同じような、近隣諸民族の生き方に対する批判である。
バベルの塔物語は、たぶん、バビロニアに実在した高い塔(ズィクラト)の廃墟を見て、インスピレーションを受けた人々が、なぜその塔が廃墟になっているのか、その理由を説明しようとした物語であろう。すなわち、かつてバビロニア人は、国家権力によって国民を統一し、自分たちの支配下に世界の諸民族を統合しようとする覇権主義の象徴として、この高い塔の建設に着手した。しかし、その不遜な計画をヤハウェが邪魔したので完成することができなかった、というのである。もしこの説明をバビロニア人が聞いたら、もちろん、そのような解釈はとんでもない誤解であり曲解である、と反論したにちがいない。