Cain & Abel 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RHzTl_WijPY
Victor Young 映画 「エデンの東」 East Of Eden 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0d-DXuyuZaI
エデンの東 : 作品情報 映画.com
旧約聖書のカインとアベルの物語を下敷きにしたジョン・スタインベックの同名小説を、「欲望という名の電車」「波止場」の名匠エリア・カザン監督が映画化した青春ドラマ。
1917年のアメリカ・カリフォルニア北部の町サリナスを舞台に、孤独な青年キャルの苦悩や家族との確執を描く。主演は本作が映画初出演となるジェームズ・ディーン。共演にジュリー・ハリス、ジョー・バン・フリート。音楽はレナード・ローゼンマン。
http://eiga.com/movie/42803/
カインとアベル ウィキペディア(Wikipedia)より
カインとアベルは、旧約聖書『創世記』第4章に登場する兄弟のこと。アダムとイヴの息子たちで兄がカイン、弟がアベルである。人類最初の殺人の加害者・被害者とされている。
カインとは本来ヘブライ語で「鍛冶屋、鋳造者」を意味し、追放され耕作を行えなくなったカインを金属加工技術者の祖とする解釈も行われている。
親の愛をめぐって生じた兄弟間の心の葛藤等を指すカインコンプレックスは、この神話から名付けられたものである。小説および映画『エデンの東』のほか、小野不由美のホラー小説・屍鬼ではカインとアベルが重要なファクターとして登場するなど、この二人の物語を題材にした作品も多い。
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『聖書を読みとく―天地創造からバベルの塔まで』 石田友雄/著 草思社 2004年発行
カインとアベル――[不条理な神の定め] (一部抜粋しています)
さて、エデンの園・失楽園物語(2章4節後半〜3章24節)のヤハウィストの流れは、「カインとアベルの物語」(4章1節〜16節)に続く。
この物語はカイン誕生の報告で始まる。
「そしてアダム(人間)は彼の妻エバを知った。すると彼女は身籠り、カインを生み、そして言った。わたしはヤハウェと共に男(イーシュ)を得ました(カーニーティ)」(4章1節)
ここで「知った」という言葉が、「性交」を意味していることは文脈から明らかである。では楽園にいたとき人間(アダム)は女と性交しなかったのだろうか。追加的説明(2章24節)を除くと、彼らがはじめて性交したのは、善悪を知る木の実を食べて、自分たちが裸であることに気づいたときか、むしろ、ヤハウェ神の審判を受けた後、人間(アダム)が彼の妻を「ハヴァ」(エバ)と名付け、彼女がすべての生きものの母であると宣言したときだろう(3章20節)。このエピソードに、カイン誕生の報告を続けて読むと、ここで「知った」という表現が、単に「性交」を婉曲話法で語っているだけではないことがわかる。
この場合、女を「知る」ということは、単なる生物学的な行為でも、性衝動にまかせた自己中心的な行為としての性交でもない。自分が死すべき存在であることを悟ったアダムが、自分の生命を次世代に伝達する希望を託す者として、エバ(生命)を「知った」のだ。したがって、ここで「知る」という動詞は「愛す」と言い換えることができる。異性を「知る」ことによって成り立つ男女間の人格的な関係を示しているのである。
「カイン」という名前と「わたしは得た」(カーニーティ)という動詞には語呂合わせがある。仮名文字で表現するとわかりにくいが、両方とも語源にQとNを含む単語である。
もっとわかりにくいのがエバの言葉だ。一般に「ヤハウェによってわたしは男子を得ました」と訳すが、これは原文に忠実な翻訳ではなく、エバの言いたいことを伝えていない。彼女は、長男カインを生んだとき、「ヤハウェ神が楽園で最初の人間(アダム)を造ったように、わたしも男「イーシュ」を生んだ」と言ったのである。ヤハウェに対抗して生命の維持伝達の役目を担い、母となった女の誇りを表現しているのだ。これは「賢くなる」誘惑に負けて、禁断の木の実を取って食べた行動にも通じる女の大胆な姿勢である。しかし、この誇らしげな宣言は、その後起こる不幸な事件の前兆でもあった。
エバは続いてカインの弟アベルを生んだ(4章2節後半)。
「アベル」(ヘブライ語で「ヘヴェル」)は、「息」、転じて「空しさ」を意味する。この単語を用いてヘブライの詩人は人間の命の空しさを歌う。
「げに人(アダム)の子らは空しきもの(ヘヴェル)、
ともになりても息(ヘヴェル)よりも軽(かろ)し」(「詩編」62章10節)
「人(アダム)は息(ヘヴェル)に似て
その日々は過ぎ去る影のごとし」(144編4節)
「アベル」という名前は、若くして兄カインに殺害された薄幸の青年の運命を象徴的に予告している。
長じてカインは農夫、アベルは羊飼いになった(「創世記」4章2節後半)。
「羊飼い」は、古来、日本になかった職業であるから、その実態を知る人は少ない。古代オリエント時代以来現代に至るまで、中東地域では、羊と山羊の群れを引き連れ、雨季と乾季に二分される季節に従って水と牧草を探し求めて広大な地域を彷徨(さまよ)う人々がいた。遊牧民である。
沃地周辺を行動範囲にするこれらの人々を、厳密には半遊牧民と呼ぶ。彼らは、荒野のオアシスを拠点として、しばしば沃地の定着民を襲撃する駱駝遊牧民とは違って、通常は沃地の農民と平和に暮らしている。しかし、ここでは便宜上、単に遊牧民としておく。
他方、農民は一定の土地に定着し、種をまいて作物を育て、収穫することを生業とする。遊牧民と農民は、生活様式が相違するだけではなく、利害が対立することがある。気候に恵まれ荒れ地にも牧草が十分に生えた年は平和に共存しているが、雨が少ないときには、牧草を求める羊と山羊の群れが農地にまで侵入してくる。当然、これを追い払おうとする農民と遊牧民の間に戦いが起こる。この状況が、カインとアベルの物語の背景である。
したがって、もともとカインとアベルは仲のいい兄弟ではなかったと想像されるが、カインが弟を憎んだ直接の原因は、職業の違いから生じた争いではなかった。
時が経つと、カインとアベルは、それぞれの労働から得た産物をヤハウェに捧げた。すると、アベルの捧げものを受け入れたヤハウェは、カインの捧げ物には目もくれなかった。そこでカインはひどく怒った(4章3節〜5節)。弟を嫉妬したのである。
なぜヤハウェはアベルの捧げ物を顧みたのに、カインの捧げ物は無視したのだろうか。新約聖書は、アベルがカインよりすぐれた犠牲を捧げたと説明したり(「ヘブライ人への手紙」11章4節)、(カインより)正しい人だった(「マタイによる福音書」23章35節)と言う。しかし、いずれの説明も初代キリスト教徒の解釈であって、物語自身が語っていることではない。
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エデンの園・失楽園物語とそれに続くカインとアベルの物語は、物語を導入する設定こそ相違しているが、物語の展開と構成については非常に似ている。その上、どちらの物語も、同じような調子で神と人間の関係を語る。
エデンの園・失楽園物語では、禁断の木の実を女と人間(アダム)が食べたことが問題の発端となり、カインとアベル物語では、捧げ物をヤハウェに認められなかったカインの怒りが弟殺害の動機となった。このように、2つの物語はまったく違う事件を語り始めるが、どちらの物語でも、問題の種をまいたのはヤハウェである。
この2つの物語の読者は、誰でも、なぜヤハウェは楽園の中央に禁断の実をつけた気を植えたのか、なぜヤハウェはアベルの捧げ物だへ受けとってカインの捧げ物は顧みなかったのか、という疑問を抱く。ところが、すでに述べたとおり、この疑問に対する回答はない。回答があるとすれば、このような疑問自体が無意味だ、という答えである。
さらに、どちらの物語でも、当事者たちが起こした悪事が露見すると、「なんということをお前はしたんだ」と、ヤハウェは驚く(3章13節、4章10節)。人間がそのようなことをするとは、ヤハウェは予期していなかったのである。人間側から言わせてもらうと、ヤハウェは人間の心理を知らない神である。しかし、物語は、人間がヤハウェの信頼を裏切ったという、ヤハウェの言い分を一方的に伝える。
そこで、驚いたヤハウェは人間を尋問し始める。すると、最初、いろいろと言い逃れをしていた当事者たちは、結局、ヤハウェの処罰を受け入れざるをえなくなる。どちらの物語にも共通する処罰は、当事者が呪われて「追放」され、同時に「恵み」も与えられることである。楽園からの追放を言い渡した後、ヤハウェは、人間(アダム)に皮衣を造って着せてやり(3章21節)、沃地から追放したカインには、彼を殺そうとするものが恐れる徴をつけてやった(4章15節)。
「追放」は、処罰を受けた者がヤハウェの面前から追い払われ、ヤハウェの庇護を受けられなくなったことを意味するが、「恵み」は、処罰を受けた当事者たちがなお「生き続けなければならない」というヤハウェの判決の真意を示している。
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人間の運命を司る神々の定めが不条理であることに、昔から人間は我慢できなかった。だから、自分が出合った不幸の原因が見つからないときは、しばしば前世までさかのぼる因果応報論によって原因を説明しようとした。親の因果が子に報い、という説明である。その結果、悪いことをしたから悪い結果が起きたのだという因果応報が成立すると、人々は世界の秩序が回復されたと思って安心した。
しかし、不条理なヤハウェの定めをテーマとするカインとアベルの物語は、人間の運命に関して、因果応報論者よりもはるかに謙虚だ。人間に不幸を与えるヤハウェが、なにを考えているのかわからなくても、カインのように自分の不幸に怒ると、もっと不幸になるだけだということを、この物語の語り手は知っていた。不条理な運命に出合ったとき、人間がとるべき唯一の姿勢は、いたずらに神の意志を憶測することではない。理由がわからないから不条理なのだ。だから、たとえ神の意志がわからなくても、神の「善意」を信じて定めを受け入れることだ。そうすれば「生かされる」はずだ、と語っているのである。