じじぃの「科学・芸術_602_明清代・科学技術の停滞」

『幾何原本』の挿絵、
マテオ・リッチ徐光啓

『海と帝国-明清時代 (中国の歴史 9)』 上田信/著 講談社 2005年発行
王朝の交替――17世紀 より
中国の伝統的な思考法は、多くの例を取り上げて、そこから法則性を見いだし、関連性を指摘するものであった。この帰納法的な思考法に導かれて、たとえば月の運行が潮の満ち干と関係していることや、体表のツボを刺激すると内臓にも反応が現われることなどを中国人は発見した。しかし中国の額は「なぜそうなるのか」という問いには答えようとはしない。これに対して西洋の思考法は、永遠で不変な神の存在から出発して、法則を導き出して個別の現象を説明しようとする。この演繹的な思考法に、徐光啓は魅了されたものと考えられる。
王朝が交替したとき、北京において宣教師マテオ=リッチが築いた信徒集団をまとめていたのは、ドイツ人宣教師のアダム=シャール(中国名は湯若望)であった。シャールは天文学に精通していた。摂政ドルゴンは中国人とムスリム天文学者が使用していた方式に謝りが多いことから、シャールが改訂した時憲暦を採用し、さらに暦の冒頭に「西洋新法」という四字を記すように命じ、さらに天文台の責任者である欽天監監正(順治帝)とも深い親交を持つことができた。宣教師の活動が清朝初期に認められたのは、シャールの功績が大きい。
前近代の中国において、天文を司る役職の責任は、私たちが想像する以上に重いものであった。いま故宮博物館となっている北京の紫禁城を訪ねてみると、国家の式典を遂行した太和殿の白大理石の基壇の上に、向かって左側(西側)に石造りの升、そして右側(東側)に日時計が置かれている。これは王朝が度量衝と時間とを統制する権限を持っていることを示すものである。王朝が暦を決定し帝国に行き渡らせるだけでなく、中国の朝貢する国々もまた、暦を拝受して用いることが義務づけられた。清代には朝鮮から毎年、暦を受け取りに行く使節が北京に派遣されている。
暦を作るために天体観測を行う総責任者が、欽天監監正であった。さらに帝国の行事を行い日取りを決定する上でも、責任を負った。天体の運行は、帝国の運営とも密接なかかわりをもっていたのである。
アダム=シャールはこの重責を意識しながらも、西洋の科学を学んだものして、天体の運行と人間界の吉凶とを結びつける中国の伝統的な思惟を否定した。自分は科学的に誤りのない法則から推算された天文学だけを引き受けているのであり、迷信と考えている吉日・凶日の区分については無関係であると、機会があるごとに口頭や文章で言明し続けたのである。清朝がしだいに中国を支配する帝国としての体制を整えていく過程で、漢族のあいだに根強い天人相関の発想を取り入れて行く。清朝とシャールなど宣教師たちとは、どこかで分岐せざるを得なかった。
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清朝の宣教師に対する態度は、彼らが持つ天文学や兵器製造などの実用的な知識は活用するものの、その思想や信仰は受け入れられないというものである。この実学重視の政策は、清朝を通じて見られるものであり、中国の知識人たちも18世紀になると、文字の獄と呼ばれる思想的弾圧を受け、明末清初の思想的な展開のなかから、世に役立つ実学のみを発展させ、経世済民の学を生み出すことになる。
19世紀にアヘン戦争太平天国という大変動に直面し、洋務運動と呼ばれる西洋の先進技術を導入する動きが見られる。この運動は思想などに配慮しない表面的な技術移転を目指したに過ぎないとされているが、そうした傾向はすでに17世紀後半に現れていたということができよう。政権の維持のために必要な知識は民族の別を越えて受け入れようとする開明性と、少数民族が漢族を支配するという体制を揺るがしかねない思想は排除する閉鎖性とを、清朝はあわせ持っていたのである。