じじぃの「科学・芸術_599_明代・坤輿万国全図」

Matteo Ricci's Chinese World Map : 1584 - 1608 : 坤輿萬國全圖 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=n1anGUlS2QE
坤輿万国全図 (明代)

坤輿万国全図 世界の歴史まっぷ
マテオ・リッチが16世紀までの知識をもとにつくったもので、東南アジアや日本、アメリカ北西部が不正確で、古来の「南方の未知の大陸」が描かれている。
明朝の高官李之藻りしそうの協力で完成した1602年の世界図を坤輿万国全図といい、複数の写本が存在する。日本にも版本がもたらされ、江戸時代中期の世界認識に多大な影響を与えた。原図は単色だが写本化される際に着色されたり、一部地名が仮名書きされたりしており、地名の考証から17世紀後半以降の写本とされている。宮城県図書館には版本が所蔵され、着色写本とともに国の重要文化財に指定されている。
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『海と帝国-明清時代 (中国の歴史 9)』 上田信/著 講談社 2005年発行
王朝の交替――17世紀 より
17世紀到来まであと半年と迫った1600年6月、宣教師マテオ=リッチは長年の希望が実現するかというときに、最大の困難にぶつかった。
1582年にマカオに上陸したリッチは、はじめ広州の近くで布教を始め、内地に居住することが許されると、肇慶・韶州と居を移し、95年には南昌に落ち着いた。すでに十分に使いこなせるようになっていた中国語を駆使して漢文で著作をものし、高官や皇族と交友関係のネットワークを広げていったが、布教についてははかばかしい成果を挙げることはできなかった。
中国社会を観察したリッチは、庶民に対する布教が一定の成果を挙げた日本とは異なり、この中国では社会の最上層に信徒を獲得しなければ布教は成功しないと判断し、帝国の首都である北京に居住することを目指すようになる。1598年秋に一度は北京に入ったものの、居住する許可は得られず南京に戻らざるを得なかった。
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さて、北京に到着したマテオ=リッチたちは、その後どうなったのであろうか。宣教師たちはかなり難しい立場に置かされていた。外国人との交渉を担当する礼部の官僚は、彼らを朝貢使節とみなし、献上品を納めた皇帝からの下賜品を受け取らせ、すみやかに北京を立ちさらせるべきであると、皇帝に具中した。
その背景として、リッチたちが世紀の交渉手続きを踏みはずして、宦官の馬堂を通じて北京に来たことを強調することで、宦官が礼部の職務に介入した罪を問い、宦官を批判しようとする意図があったと、リッチは記している。しかし、皇帝の朱翊鈞(隆慶帝の子)はリッチが献上した「自鳴鐘(じめいしょう)」(置き時計)に興味を持ち、時計を調整できる宣教師たちを北京に居留させたかった。そこで皇帝は、礼部の上奏を無視し続けたのである。
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17世紀に中国の知識人は、キリスト教という異文化と出会った。イエズス会のマテオ=リッチは、中国文化を深く検討し、知識人と対話するところから中国での布教を始めようという方針を出した。まずキリスト教の神と儒学の上帝とが同一であるとして対話の糸口をつかみ、西洋の科学技術を紹介することを通して、交流をはかろうとしたのである。中国人の知識人たちもこうしたリッチの方針に従う宣教師たちを、西儒、すなわち西洋の儒学者として受け入れ、対話に臨んだ。