じじぃの「科学・芸術_547_宗教国家アメリカ・反知性主義」

George Whitefield 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Xj0DGmwJ1sg
森の中のリバイバル集会

George Whitefield

『宗教国家アメリカのふしぎな論理』 森本あんり/著 NHK出版新書 2017年発行
反知性主義」という伝統 より
信仰復興の克明な記録が初めて残されたのは、1734年のことでした。初めは数人の「回心」、すなわち正しい信仰への目覚めをきっかけに、1つの町全体に急速な宗教心の高揚が見られるようになります。風紀が改まり、慈善が増え、酒場が空になる。人びとはこぞって教会に通うようになり、礼拝は悲嘆の涙や歓喜の叫びにあふれかえりました。その興奮は感情的にも身体的にも表現されるようになり、老若男女を問わず人びとを巻き込んで、熱狂の様相を示していくのです。
つまり「信仰復興」とは、ある時期にある地域の人びとが急に宗教心を深めることです。
「集団菱ヒステリー」と言ってしまうと、やや大袈裟すぎますが、それに近いものです。前述したとおり、アメリカでは18世紀以降、リバイバルの大波が何回か訪れました。この運動の指導者となった人びとを「リバイバリスト」といいます。
ジョナサン・エドワーズ(1703-58)という牧師は、最初に1734年から35年にかけて起きた信仰復興を記録し、みずからその指導者となりました。1741年の彼の説教「怒れる神のうちにある罪人」(Sinners in the Hands of an Angry God)は、長くアメリカの教科書に載っていたため、全米でもっともよく知られた説教と言われます。
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時あたかもニューイングランドは、入植から数世代を経て、宗教的にも社会的にも変化の必要に晒(さら)されていました。その実存的な不安を背景に、この地域的な熱狂は燎原(りょうげん)の火のごとく広がっていきます。その主な担い手が、前章でも紹介した「巡回説教師」という新しい種類の指導者でした。
当時の教師たちは、みなハーバードやイェール大学出身のエリートで、牧師として招聘(しょうへい)されると、その町全体の精神指導者として確固たる地位を築きます。ところが、新手の説教者たちは、大学教育も受けておらず、牧師としての正規の訓練も受けたこともない。つまり、どこの馬の骨ともわからぬ輩が、外から乗り込んできては、広場や河原に人を集め、平穏な暮らしを興奮と熱狂に包んでは、町を大混乱に陥らせるのです。
なかでも、イギリスからやってきたジョージ・ホイットフィールド(1714-70)の雄弁はよく知られています。彼自身はオックスフォード大学を卒業していますが、アメリカでは巡回説教師の代表格です。
すでにロンドンで名説教師として鳴らしていたホイットフィールドは、1740年、アメリカに1年間滞在し、エドワーズを含む多くの人からの招きに応じて、東海岸ジョージアからメインまでを回り、何千という聴衆を前にして、ほとんど毎日のように説教を続けました。若い頃は俳優を志していただけあって、彼はよく通る声をもっており、身振り手振りを交えた平易な言葉で、多くの人を魅了します。その語り口たるや、まったく見事なものだったといいます。
ある日の観察によると、彼は旧約聖書のなかの「メソポタミア」という1語を何度も語調を変えて叫ぶだけで、全聴衆を涙にうち震わせたそうです。
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もちろん、客を取られたかたちになった既成教会の牧師たちは、やっきになって巡回説教師たちを取り締まろうとしました。「ハーバードかイェールを卒業した者でなければ、境界では説教させない」ことを仲間内で定めたりもしましたが、そんな取り決めは野外で勝手に開かれる集会には無力です。
逆に、リバイバリストたちは牧師に向かって言い返しました。
「神は福音の心理を『知恵のある者や賢い者』ではなく『幼な子』にあらわされる、と聖書に書いてある(「マタイによる福音書」11章25節)。あなたがたは学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない。まさにあなたがたのような人こそ、イエスが批判した『学者パリサイ人のたぐい』ではないか!」
学者パリサイ人のたぐい――これこそ反知性主義の決めゼリフです。
どんな宗教でも、その出発点では、インテリの言葉ではなく、素朴で平易な感覚が尊ばれます。反知性主義の究極の出発点は、「学者」と「パリサイ人」、つまり当時の学問と宗教の権威者をともに正面から批判したイエスの言葉なのです。
その根底には、「神の前では万人が平等だ」というきわめてラディカルな平等意識が働いています。どんなエリートや権威者であっても、神の前ではほかの人と何ら変わりのない一人の人間であり、一人の罪人であるにすぎない。地上の学問や制度の権威は、神の前でのラディカルな平等意識に吹き飛ばされてしまうのです。