じじぃの「科学・芸術_337_シェイクスピア戯曲集<ファースト・フォリオ>」

Kenneth Branagh and The Tempest 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0OiDtHqOe-E
Bob Dylan album sampler: Tempest 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Tbnb7LjwCjA
To live or To die... that is the question.

シェークスピア観劇のススメ 13 April 2006 英国ニュースダイジェスト
●演劇を知り尽くした男、シェークスピア
英国で最も偉大な作家の1人として、今も文学界に燦然と輝くシェークスピアの存在。
シェークスピアがここまで英国人に愛される理由は何だろうか。劇作家としての彼を、演劇という側面から探ってみよう。
http://www.news-digest.co.uk/news/features/510-shakespeare-play.html
『世界文学大図鑑』 ジェイムズ・キャントンほか/著、沼野充義/監修 三省堂 2017年発行
人は生涯にいくつもの役を演じる <ファースト・フォリオ>(1623年)ウィリアム・シェイクスピア より
1999年にシェイクスピアはイギリスで「この千年紀最大の人物」に選ばれ、2012年のロンドンオリンピック開会式では『テンペスト』の台詞が使われた。イギリスの文化を輸出する有数の担い手であり、毎年80万人近い人々がストラトフォード・アポン・エイヴォンにはるばるやってきて、シェイクスピアの人生がはじまった家屋を訪ねる。
いったいなぜシェイクスピアが、現代の読者や芝居好きにとってこれほどまでに特別な存在でありつづけるのか、その魅力の多くは、人間にありがちなものをことばでとらえる能力にある。シェイクスピアはことばを巧みに操って、こみ入った感情をきわめて効果的かつ簡潔に伝えることができた。観客が靴直しから廷臣までそろっていたという事実は、社会的地位も教育も年齢も網羅して訴える詩的な台詞をシェイクスピアに生み出させた。その劇は中庭の立見席の人々の心を動かす必要があったが、その一方で、しばしば君主や宮廷人の好みも満足させた。それゆえ、その作品がいまも広範な受け手に親しまれやすいのは少しも不思議ではない。その想像力に富む物語には、子供たちと目の肥えた芝居好きの両方を楽しませる力がある。
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<ファースト・フォリオ>は、シェイクスピアの戯曲を喜劇、史劇、悲劇に分類している。3種類の区分はいささか恣意的で、シェイクスピアが自分の戯曲をどう見たかはあまり示されていない。たとえば『ジュリアス・シーザー』は悲劇として載せられているが、これは史劇だと言って差し支えないだろう。一方、『リチャード3世』は史劇に分類されているが、これは悲劇だとも呼べよう。
シェイクスピアはかならずしもひとつのジャンルだけをめざしていたわけではない。革新的な作家として、異なる特性をしばしば混ぜ合わせ、自身の作品に変化を生み出そうとした。たとえば、大きな悲しみの場面で、ときおりブラックユーモアの要素をいれ、『ハムレット』では、墓堀人が墓を堀りしながら歌う。マクベスと妻が手についた血を洗い流そうと退場しているときには、門番が観客に戯れ言を聞かせる。『アントニオとクレオパトラ』では、クレオパトラが自殺を考えながらも、感情を高ぶらせて浮かれ騒ぐ。同様に、シェイクスピアの喜劇は肩の凝らない軽い調子のものと思われがちだが、暗く危ういこともしばしばある。『尺には尺を』では、イザベラがアンジェロに性的な問題で悩まされる。『夏の夜の夢』では、オーベロがテイターニアの目に薬液を塗って魔法をかけ、最初に見たものに恋をしてしまうようにする。『十二夜』では、マルヴォーリオが堅苦しい気質のせいで公然と大恥をかかされる。
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<ファースト・フォリオ>におさめられた戯曲のうち、いくつかの作品はシェイクスピアの傑作という評価を得ている。『ハムレット』を読んだり観劇したりした経験がなくても、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」ということばにはだれでも聞き覚えがある。ハムレットと言えばふさぎこんで思索にふける、ということは、いまでは世界じゅうに知れ渡っている。この主人公のなかにシェイクスピアは、歴史上屈指の詩的な表現を作りあげ、掻き乱された良心の文学的幻影を生み出した。ハムレットが道義心と死の問題にもがき苦しんで、右に左に心を大きく揺らすとき、その台詞を聞く者は同じように心を揺さぶられる。ハムレットは「どんな夢がやってくるのか、この人間世界の煩わしさを振り払ってしまえば」と思い悩む。数えきれないほどの詩や小説や戯曲が示すとおり、悩むのはハムレットひとりではない。リア王は悲劇的人物として作られた別の例で、リア王のことばはシェイクスピアが理解する人間の状況に対して直接発せられる。年老いたリア王による自分自身と周囲の世界のとらえ方は、若い世代の見方とは相容れない。自負心から性急な判断をくだしたが、それゆえ友人と家族から見放され、ひとり取り残されたリア王は、自分のおこないや他者との関係を顧みる。シェイクスピアが生み出した何人もの悲劇の人物と同様に、リア王もみずからも思いに苛まれ、おのれのあり方を見なおして「もっとよく見る」時間が長くつづいていく。
『夏の夜の夢』はシェイクスピアの喜劇のなかでも最も親しまれた作品で、ボトムはシェイクスピアが生み出したとりわけ印象深い人物である。森で芝居の稽古ををしているとき、ボトムの頭はいたずら好きな小妖精パックの魔法でロバの頭に変えられる。舞台の上では、見た目の効果が本で読むよりはるかに強烈な印象を与える。俳優の姿がすっかり変わるのを見て感じる高揚感をまるごと味わえるのは演技を通してだけだが、ボトムの人生経験がすっかり覆され、つかの間、自分が別のだれかとして人生を送る気がしてくることは、戯曲を読む者にもじゅうぶん伝わるだろう。この技法はシェイクスピアのほかの喜劇でも繰り返され、そこでは変装することで登場人物が自分の正体を変えることができる。『お気に召すまま』のロザリンドと『十二夜』のヴァイオラは、どちらも男装する。そして『まちがいの喜劇』では、2組の双子が互いにまちがわれてなんとも愉快な結果になる。