じじぃの「科学・芸術_311_セントラル・パーク(NY)」

セントラルパーク ニューヨーク | エクスペディア 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QRMpdpt70Yw
Central Park in Winter (19世紀)

『ニューヨーク (世界の都市の物語)』 猿谷要/著 文藝春秋 1992年発行
都市を彩る明暗 より
ニューヨークの過去を探るためには、どうしても何回か訪ねなければならない場所がある。その典型的な例が、セントラル・パークの西側に面しているニューヨーク歴史協会(New-York Historical Society Museum)だ。
もともと8番街とよばれるはずのこのアヴェニューが、公園に面した部分だけ特別にセントラル・パーク・ウェストという名がついて、そこに住む人たちの社会的ステイタスを証明している。
昔ゴキブリが走り回るような薄汚れたウェスト・エンドのホテルに泊まって、「ニューヨーク・タイムズ」の広告欄を頼りにアパートメント探しをしていた頃、よくこのCPWという表現が目についた。始めは何のことか分からないでいたが、その実態を知ってみると、私などの手の出る場所ではなかったのである。
とくにCPWの南半分は評判が高く、72丁目にあるダコタ・アパートメントは1881年に建てたれたものながら、当時のエレガントな様式を十分にとり入れた建物で、音楽家のレナード・バースタインや女優のローレン・バコール、それにジョン・レノンオノ・ヨーコもここに住んでいたのだ。
ニューヨーク歴史協会はそのアパートメントから僅か4ブロック北にあり、あの巨大な自然史博物館の南に、つつましく、ひっそりと建っている。規模も小さく、訪ねる人もまばらなので、比較的短い時間にゆっくりと見て回ることができる。
      ・
ところでCPWの76丁目にあるこのニューヨーク歴史協会の前に立って眺めると、目の前のセントラル・パークは南北に見渡せないほど長く続いている。南の59丁目から北は110丁目まで、南北に4キロ、東西は5番街から8番街に当るこのCPWまで0.8キロ、なんとも雄大なスケールである。
この公園について、今でも忘れられないことがある。1982年に『アメリカ賛歌』というみごとな写真集が出版された。81年の写真家が撮った152枚の写真をJ・C・スアレスが選び、これに『ラグタイム』の著者E・L・ドクトロウが、短い文を随所にちりばめて作ったものである。
季節は秋から始まって、真夏で終るように編集されていた。
      ・
セントラル・パークにそのシンボルを求めた編者の着想と、その期待に立派に応えたパーク自体の存在に、改めて脱帽したいほどの気持ちになったのである。
もともとニューヨークでは、これほど大規模な公園など造ろうとは思っていなかった。東はイースト・リバー、西はハドソン川、南は湾、それぞれたっぷりと大自然と向きあっているので、その上大きな公園など造る必要はないと考えていたのだ。
しかし1830年代から40年代にかけて移民が急激に増え、住宅街も南から北へ向かって拡大するにつれて、このままではやがて人口過密で息苦しい都市になるかもしれないという不安が、しだいに市民の間に広がってきた。
”都市の肺”が必要であることを、初めて力説したのはウィリアム・ブライアントだった。彼は1844年に「ニューヨーク・イヴニング・ポスト」紙で、次のようにのべた。
「金儲け主義のために、この島の岸辺が刻一刻と食い荒されている。健康とリクリエーションのために島の一部でも保存しておきたいならば、今こそその時期なのだ」
すぐに反響があらわれて、アンドリュー・ダウニングという若い設計家がこれに応じた。彼は金持ちも貧乏も一緒に集まって楽しむ場所が必要だ、と叫んだのである。
      ・
そのため設計案を全米から募ることになり、フレデリック・オウムステッドとカルヴァート・ヴォークスの案が採用された。ヴォークスはロンドン生まれの人で、ダウニングの事務所で働いていたこともあるから、設計家として少しはその名を知られていたけれども、設計の業績がまったくないオウムステッドが選ばれたのはかなり不自然な気もする。おそらく目に見えないところで、多少の運動をしたのではないか。
そうだったとしても、この2人が組んで作成した案はすばらしいものだった。オウムステッドはすべての人が楽しめる田園をここにもちこもうとし、ヴォークスがそれを実現させようと努力したのである。
実際ニューヨークには、少し離れれば豊かな田園が拡がっていた。19世紀なかばまでの画家が腕を競い合ったのはハドソン湖畔の美しい風景を対象にしたものだったし、またブルックリンのさらに東には、ロングアイランドの落ち着いた林や野原が、人びとの目を楽しませてくれた。
しかし到着したばかりの貧しい移民たちに、そういう自然の美しさを楽しむ余裕はなかったので、誰もが市のなかにいて味わえる清潔な空気や森、池などをオウムステッドは造らなければならないと考えたのである。
1857年に着工、69年に一部オープンし、73年にやっと完成にこぎつけるまで、南北戦争をはさんで長い歳月を要したが、出来上がってみると、なんともみごとな仕上がりである。公園の東西を結ぶ横断道路トランスヴァースは、それと気がつかないほど巧みな立体交差になっていて、しかも自然の環境はそれぞれに生かされ、公園のなかを人びとは横断道路に妨げられず、ゆっくりと散策を楽しめるのだった。