じじぃの「科学・芸術_313_人種のるつぼ(NY)」

Schoolhouse Rock - ''The Great American Melting Pot'' 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5ZQl6XBo64M

NY市に居住するアジア系の人口と比率

知ってそうで知らないNY市の事実、人口と人種の10年比較 February 5, 2013 My Big Apple NY
NY市へ流入している人種は、ヒスパニック系だけではありません。特筆すべきは、アジア系の急増っぷりでしょう!!2000年から2010年の10年間で、実に人口ベースで31.8%増という飛躍的な成長を遂げました。こちらでお伝えしたように、2010年に移民としてアメリカに入国した人種トップがアジア系というのも、納得です。
http://mybigappleny.com/2013/02/05/nyc-population-change-in10yrs/
『ニューヨーク (世界の都市の物語)』 猿谷要/著 文藝春秋 1992年発行
爛熟と変貌 より
いつの時代でも、ニューヨークは一歩先を歩いていた。ハーレム暴動が全米都市の人種暴動の口火を切ったように。
しかし大学紛争は、カリフォルニアのバークレー校がまず火の手をあげた。64年秋のことだった。その頃は、黒人革命、ベトナム反戦運動、女性解放運動、公害反対運動、それに管理化された社会に対するカウンター・カルチャーとしてのヒッピーたちの運動――すべてが渾然と混じり合って、リベラルで騒がしい60年代のムードを醸成していた。
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アメリカ国内がいろいろな面で大揺れに揺れていても、なお亡命者はアメリカを目指すのだ。そしてアメリカは、内情がどんなに苦しくても、その熱い期待にこうして応えているのだった。
しかしこれは一方で、ニューヨーク市民の顔を休息に変えていくという矛盾を孕(はら)んでいた。その矛盾に直面しなければならなかったのは、共和党でリベラル派からも推されたジョン・リンゼイ市長だった。
ハンサムなこの市長は、最初からついていなかった。65年11月、当選してから1週間ばかりたったとき、ニューヨークは空前の大停電に見舞われた。もちろんこれはリンゼイにとって直接関係のある話ではないあが、こういう災害に大都市がいかに無力であるかを説明した例であり、9ヵ月後に出生率が急増したというおまけまでついている。
ニューヨークの電力危機はその後ある程度日常的に叫ばれるようになり、69年夏にも全市のエレベーター使用が禁止された。これがかなり長く続いたので高層アパートメントにすむ高齢者は悲鳴をあげ、自家発電のホテルへ避難してしまった。ホテルへ逃げられない私たちは、せめて1週間のバス旅行でも、と思ってカナダめぐりを始めたが、戻ってきても電力規制はまだ続いていたのだ。
リンゼイ市長が直面した深刻な現実は、他にあった。それは人種や民族の問題だった。
1940年にニューヨークの黒人人口は45万8000人だったのに、80年にはもう178万人を超え、比率は25パーセントにも上がっていた。その多くは職を得られず、社会福祉の世話になった。市の財政にとっては思いがけないことで、しかも狭いスラムに閉じこめられたフラストレーションは、犯罪の増加につながっていった。
もっとも劇的に増加したのはスペイン語系の住民だった。メキシコ系や中南米系の人びとだが、とくに目立ったのはプエルトリコからの人びとだった。
カリブ海北東部に位置するこの島は、1898年の米西戦争の結果スペインからアメリカの領土となり、その後もずっと貧困に喘いでいたが、第二次大戦後に核航空会社が運賃の値下げ競争をして、サンファンとニューヨークを結ぶ9時間のフライトがなんと50ドルを割るようになってから、異変が始まったのである。
信じがたいほどの数字だが、1940年にニューヨークに住んでいたプエルトリコ系約7万人、ところが80年の国勢調査によればスペイン語系は約140万、全体の約20パーセントを占めるという勢いだ。この140万人のなかにはジャマイカ、ハイチ、ドミニカ、キューバなど西インド諸島からの移民も含まれているが、プエルトリコアメリカ領だから移民ではなく、従って増加するのをコントロールできる方法はない。
こういう西インド諸島の人びとの祖先はたちていアフリカなので、多くの場合黒人市民との見わけがつかない。ある黒人の集会に出かける途中で知り合った黒人の青年から、
「ノー、ぼくはプエルトリコから来ました」
とはっきり区別していわれたことがある。
とにかくニューヨークの人口は1950年以降700万台を上下していて、それほど大きな変化がない。それなのに黒人とスペイン語系(実際はこれも黒人系といっていいくらいだが)の住民が急増したということは、その分だけ白人住民が市の郊外へ脱出したことを意味している。
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とくに急増しているのはチャイナ・タウンで、僅か3キロ四方の面積に20万の人びとが住む超過密地帯になり、入りきれない人たちは近くのリトル・イタリーや、かつてのユダヤ系が住んだロワー・イーストサイドへはみ出している。
ごく最近も、チャイナ・タウンで昼食をとった。ゴミゴミと立て込んでいる店ほど、安くてうまい。魚餅粥と生菜魚球粥、それぞれ1つずつ注文し、半分ずつ夫婦で分けて食べる。それぞれ3ドル10セント。この値段でたっぷり昼食をとれる場所は、おそらくなうだろう。
韓国とインドからの移民も目を見張るばかりに急増している。かつて日本人ばかりが目立ったクィーンズのフラッシング地区は、他のアジア人系の人たちが急速に増え、ここからマンハッタンのダウンタウンに通う地下鉄は、別名「オリエント・エクスプレス」と呼ばれているほどだ。
私はまだ訪れたことはないけれど、ジャクソン・ハイツのあるメソディスト教会では、英語、スペイン語、韓国語、中国語で、4回に分けて日曜礼拝を行なっているのだという。
こういう結果、いまニューヨークではどうなっているのかというと、いつの間にか政治的には多数派がいなくなってしまったのである。