じじぃの「科学・芸術_211_気候変動・渡来人(5世紀)」

<10分でわかる日本史> 歴史005 古墳時代 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UgitPJm3dww
5世紀の奈良
(syoki-kaimei.c.blog.so-net.ne.jp HPより)

渡来人 (inoues.net HPより)

古墳後期、飛鳥は渡来人居住の地 So-netブログ
日本書紀』雄略7年(470年)の記事には「天皇は大伴大連室屋に詔して、東漢直掬に命じ、新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを、上桃原・下桃原・眞藭原の三ヶ所に居住させた。」とある。
「新漢」とは新来漢人(今来漢人)のことで、「陶部」は土器を焼く陶工、「鞍部」は馬具の製作、「画部」は画士、「錦部」は錦織の文様を織る工人、「訳語」は通訳のことである。雄略の時代に陶・鞍・画・錦・訳語の先進技術・文化を携えた渡来人が、大和国高市郡檜前(明日香村檜前)を本拠地とする東漢氏(倭漢氏)の管轄下のもと上桃原・下桃原・眞藭原の三ヶ所に居住していたことになる
http://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/2016-10-24
『気候文明史』 田家康/著 日本経済新聞出版社 2010年発行
東アジアの混乱 (一部抜粋しています)
ローマ帝国が異民族の侵入と自然災害に悩まされはじめる2世紀後半以降、東アジア諸国でも洪水や干ばつの頻度が増し、冷涼な気候に襲われて政治的な混乱が生じた。中国での洪水や干ばつの発生件数をみると、100年から150年の間と、250年から340年にかけての、2度の機関に頻発している。
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一般的には、倭国大乱(弥生時代後期の2世紀後半)は日本が国家統一をしていく過程での、部族間抗争であると考えられている。戦闘規模も、せいぜい部族の単位あるいは部族連合程度であったろう。しかし、東アジア全域での政治混乱と時期を同じくしている点は注目されていい。尾瀬ヶ原泥炭地の花粉分析では、246年以降に寒冷化傾向を示しており、日本海南部の海底コアから、270年の気温低下の幅は14世紀以後の中世の寒冷な時期よりも大きかった可能性が指摘されている。
5世紀の古墳時代にも、東アジアに寒冷化傾向は現れた。坂口豊教授は、この時代から飛鳥時代までを「古墳寒冷期」と命名している。この時期にも大陸から大量に人々が渡来している。2800年前からの弥生系渡来人と同様、大坂での自然環境が厳しくなると、押し出されるように難民が日本列島に移住する状況が再び起きた。
日本書紀』には、崇神天皇の即位直後に疫病が流行したとあり、多民族が入り混じったことを推測させる。また、『古語捨遺』には、4世紀末の応神天皇の頃に「秦公が祖弓月、120県の民を率いて帰化せり」とあり、百済から日本に大量の渡来人が渡ってきたことを想像させる記述がある。
現在の日本の人口が1億人であることから、農民といっても数万人であれば比率的に小さいと思われるかもしれない。しかし、小山修三教授の人口推計(第2部第2章)によれば、縄文晩期の7万8000人から弥生期には60万人と大幅に増加している。人口増加の多くが、大陸からの移民によってもたらされたのではないか。新しい技術を持った少数のグループが渡来人として移住したというよりも、大人数の集団が何度も海を渡り、人口のまばらな地域に押し寄せてきたとみた方がいいだろう。