じじぃの「神話伝説_17_仁徳天皇」

仁徳天皇陵

古代皇室系図 仁徳天皇

仁徳天皇陵古墳百科 堺市
今から1,700年程前の西暦3世紀から7世紀の約400年間、大王や王(豪族)が亡くなると、土と石を使って高く盛った大きな墓を造りました。今、この墓を古墳とよび、造っていた時代を古墳時代とよんでいます。全国に20万基以上はあるといわれる古墳のなかで、日本最大の古墳が堺市にある仁徳天皇陵古墳です。
墳丘の大きさでは全長486メートルと、エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられる世界に誇る文化遺産です。
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/kofun.html
仁徳天皇 ウィキペディアWikipedia)より
仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。
名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。
応神天皇崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。
ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとする見方もある。

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『日本神話の謎を楽しむ本』 鎌田東二/監修 PHP研究所 2012年発行
仁徳天皇 民の生活に気を配る一方で意外な、一面を持つ「聖の帝」 (一部抜粋しています)
歴代の天皇のなかで、もっとも徳の高い天皇として知られるのが、第16代の仁徳天皇(オオサザキ)である。幼い頃から容姿端麗だったとされ、広い心の持ち主で「聖帝」といわれた。仁徳天皇には、その聖帝として3つのエピソードが伝えられている。
ひとつ目は、河内平野の開発を進め、茨田の堤、依網の池、丸邇の池、などを設けるなど、土木事業に力を入れたことだ。とくに、茨田の堤は土木技術を持つ渡来人を起用して工事が進められた。さらに難波の堀江を開削して運河を設け、港湾設備である墨江津を整備した。こうして河内平野に豊かな実りをもたらしたのである。
ふたつ目は租税免除の話である。天皇が即位して4年目、高い山に登って国を眺めてみると、どの民家からも煙が上がっていなかった。天皇は、民が貧しくて飯を炊く煙すら上げられないことを知り、民の窮乏を救おうと、以後3年間にわたり、租税の徴収を止めたという。宮中でも質素倹約を重んじ、食物も粗末なもので済ませた。宮が破損しても修繕は行わず、荒れるにまかせたという。そうした仁政の甲斐あって、民の暮らしは豊かになり家々からは炊煙が昇るようになった。
3つ目は、大樹で造った快速船「枯野」が古くなったので塩を焼く材料にしたところ、焼け残った木から名琴が作られたというもの。一見ただの逸話に見えるが、これは瑞兆(ずいちょう)を示す記事であり、統治者の徳の高さを物語る。
日本書紀』でも「聖の帝」であることを強調しており、実在の可能性は高いものの、儒教思想を多分に加えつつ形づくられた、理想の天子像であったと見られる。