じじぃの「科学・芸術_56_ハッブルの晩年」

Hubble Telescope Space-Shattering Discoveries 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=--X9zfgZtS0
ハッブル望遠鏡 50の傑作画像 その1 ナショナルジオグラフィック日本版サイト
ハッブル宇宙望遠鏡は、25年間にわたって宇宙の画像を送り続け、人々を魅了してきました。そのなかから、専門家が厳選した画像など本誌未掲載もあわせた50の傑作画像を順次紹介していきます!
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/15/327803/032600001/
ハッブル 宇宙を広げた男』 家正則/著 岩波ジュニア新書 2016年発行
大望遠鏡と、20世紀最大の天文学者の挫折 (一部抜粋しています)
ハッブルの名前は科学者だけでなく、一般の人にもよく知られていました。それを象徴するのが、1948年にハッブルの肖像が著名な雑誌「タイム」の表紙を飾ったことでしょう。その後の半生記に「タイム」誌の表紙を飾った天文学者は、クェーサーを発見したマーチン・シュミットと作家としても有名なカール・セーガンだけです。
こうした背景もあったのでしょう。天文台長にはなり損ねましたが、ハッブルは自分こそが5m望遠鏡を駆使して、研究をさらに進める主役になると信じて疑いませんでした。
1948年のある日、ボーウェン台長ほかウィルソン山の首脳がハッブルの家に集まりました。5m望遠鏡の観測計画を話し合うためでした。ハッブルは以前から暗い銀河の分布を調べる大計画を提案しており、当然、自分の計画が採用されるものと思っていました。
ですがその計画を実行するには、5m望遠鏡の全観測時間の半分を、しかも月のない貴重な深夜をすべて使わねばなりません。それにこの計画では、明確な結果が得られないリスクもありました。その点、「赤方偏移の大きい銀河の探査研究」なら確実な成果が期待できます。皆はハッブルを傷つけないように気を配りながら、計画を断念するように説得しました。この議論にはもっともな点が多く、ハッブルも紳士的に受け止めざるを得ませんでした。
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1953年9月28日の朝、サンタバーバラの研究所にいつものとおり出かけたハッブルは、昼食のために3km先の自宅に向かって歩いていました。車で出かけていたグレースは、偶然、歩いている夫を見つけて車に乗せます。他愛のない話をしていたグレースは、やがてハッブルの様子がおかしいことに気づきます。自宅に着く頃、ハッブルは何か言おうとしましたが、意識を失ってしまいました。脳卒中を起こして、ほぼ即死状態だったそうです。64歳の誕生日を迎える3週間前のことでした。
天文台長になり損ね、自分の提案した観測計画も皆から賛成してもらえなかったハッブルは、、体調を崩してから病気になったのでしょう。「自分が死ぬときは静かに消えたい」とグレースにもらしていたそうです。
グレースは、ハッブルの死を誰にも知らせず、葬式もせずに、翌日には遺言どおりに遺体を火葬しました。土葬が一般的だったにもかかわらず、あえて火葬を選んだハッブルの心境はどのようなものだったのでしょうか。ヒューマソンやサンディッジも別れを告げる機会がなく、遺灰を納めた壺がどこに埋葬されたかさえも公表されませんでした。
ハッブルの死は、新聞大手の「ニューヨーク・タイムズ」などでも報道されました。後にヒューマソン、アダムス、メイヨール等が追悼記事をいろいろな出版物に寄稿しています。アダムスは、ハッブルの経歴と業績を詳しく述べて「彼の死が天文学界にもたらす損失ははかりしれない」と述べています。ハッブルの行状に手を焼いていたアダムスも、彼の業績には同じ天文学者として、敬意を抱いていたのでしょう。
ハッブルが亡くなった後、グレースはノーベル賞選考委員のエンリコ・フェルミとチャンドラセカールから、「ハッブルを物理学賞の候補に推薦していた」と聞かされました。しかし、ノーベル賞は存命の人にしか授与されません。ハッブルはまさに大事なときにこの世を去ってしまったのです。