じじぃの「人の死にざま_1742_ジョージ・エラリー・ヘール(天文学者)」

ウィルソン山天文台 望遠鏡
パロマー天文台 SPACE INFORMATION CENTER
カリフォルニア工科大学のあるパサデナから南東に約220km、パロマー山中の台地にある天文台(北緯33度21分、西経116度52分、海抜1,706m)です。
天文学者ジョージ・ヘール(1868〜1938)の尽力で完成した508cm反射望遠鏡は、現在でも世界有数の大きさで、50億光年のかなたの銀河までも観測できます。
現在はウィルソン山天文台を含み、ヘール天文台と呼ばれています。
http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/utyu_tenmon_paroma.html
ハッブル 宇宙を広げた男』 家正則/著 岩波ジュニア新書 2016年発行
生い立ちと青春 より
1913年1月、父のジョンがマラリアの長患いの末、亡くなりました。かなり裕福だったハッブル家も、その頃までには蓄えを使い果たしていました。エドウィン・ハッブルケンタッキー州ルイビルに住んでいた家族の元にオックスフォード留学を終えて家族の元に戻ったのは、その半年後の夏でした。
エドウィンは帰国後、ケンタッキーで司法資格を取ります。当時は今と違って厳格な試験をするわけでなく、ウィスキーを手土産に判事の口頭試問に答えて資格を得るような例もあったそうです。おそらく、もらったローズ奨学金が無駄になったと思われては困るという配慮から、帰国後、資格だけは得ておきたかったのではないでしょうか。エドウィンが法律事務所を働いた形跡はなく、後々までこのことには触れたがりませんでした。
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ハッブルが働くことになったヤーキス天文台は、1897年に天体分光学の権威エドウィン・フロストを台長に迎え、開設されました。その功労者は、ジョージ・エラリー・ヘールです。ヘールはシカゴのエレベータ王の息子で、24歳でシカゴ大学助教授になりました。
1892年7月、ヘールは南カリフォルニア大学がウィルソン山天文台用にフランスに注文した直径105cmのガラス円盤が2つ完成したものの、支払いができず宙ぶらりんになっていることを偶然知ります。
ヘールはシカゴ大学長のハーバーと共にシカゴの鉄道王チャールズ・ヤーキスに面会し、世界最大の1m屈折望遠鏡を建設する資金の援助を頼みます。「自分の名前がついた世界一の望遠鏡ができる」という話に心を動かされたヤーキスは、資金提供を承諾します。こうしてシカゴから120kmほどのジュネーブ湖のほとりにヤーキス天文台が建設されたのです。
ヤーキス天文台でのハッブルの研究は、まず反射望遠鏡で写真を撮ることから始まりました。
アンドロメダ銀河の謎 より
ヘールは、ヤーキス天文台にいたウォルター・アダムスなど主な天文学者をウィルソン山天文台に引き抜きます。そんなこんなで、ヤーキス天文台はできあがって10年もたたないうちに、天文学の最前線からは遅れを取ることになってしまいます。
1908年、1.5mの反射鏡を荷車に載せ、山頂に向かって何頭ものラバに曳かせてゆっくりと登っていたとき、フランスからヘール宛てに「2.5mのガラス鋼材ができた」という電報が届きました。ヘールはきっと、わくわくしながらその到着を待っていたことでしょう。しかし年末に届いた2.5mのガラス鋼材を観た研磨技術者は、ガラスの中の気泡をみて「使い物にならない」と宣言。ヘールはとてもがっかりします。ガラス会社はその後も何度か作り直しを試みましたが、失敗続きで、ヘールは絶望して精神的に参ってしまいます。
そして1910年、最後の望みを託してアメリカのガラス製品メーカー、コーニング社の専門家に診断してもらうことになりました。すると、その技術者は「このガラスは使えそうだ」と言ってくれました。こうしてやっと、研磨作業に入ることができたのです。
望遠鏡の筒や台は東部の会社で作られました。ところが陸上輸送するのは大きすぎることがわかり、北極海からアラスカを回ってカリフォルニアまで海上輸送することになりました。
嵐で船が沈まないか、戦争中のドイツの潜水艦に撃沈されないかと、ヘールの心配は後を絶ちません。
7年後の1917年11月1日、2.5m望遠鏡にとって最初の夜が来ました。望遠鏡はこと座のヴェガに向けられ、アダムス以下18人の職員が見守るなか、ヘールが接眼鏡をのぞきます。
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ヘールは天文学の歴史のなかで、創意工夫にあふれ、未来を見越し、目標に向かう不屈の精神と活力を持ち、実際に計画を成功に導いた、有能な科学マネージャーとして知られています。彼の頭のなかには、より大きく新しい計画が、いくつもいくつも渦巻いていました。
さて、終戦後、ハッブルがウィルソン山天文台に着任したのは1919年9月3日、2.5m望遠鏡完成のおよそ2年後でした。