じじぃの「ハッブル・ノーベル賞を逃がした天文学者の晩年!宇宙を広げた男」

Edwin Hubble - A Short Biography

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6j-q4VN_7Hk

Edwin Hubble Lived 1889 - 1953.

edwin hubble

Famous Scientists
Edwin Hubble Lived 1889 - 1953.
●Some Personal Details and the End
Hubble’s discovery of other galaxies made him famous. He featured on the front page of Time magazine in 1948, and he and Grace became close friends with the novelist Aldous Huxley and his wife Maria and met many of Hollywood’s stars.
In 1949, age 59, Hubble suffered a serious heart attack. Grace nursed him back to health, but had to reduce his working hours - no more long cold nights at the telescope were allowed.
Edwin Hubble died, age 63, of a stroke (cerebral thrombosis) on September 28, 1953 in San Marino, California. At his own request, his final resting place is not known and Grace destroyed his personal papers. When Grace died in 1980 she was buried in the same secret resting place.
https://www.famousscientists.org/?s=edwin+hubble

ハッブル 宇宙を広げた男』

家正則/著 岩波ジュニア新書 2016年発行

大望遠鏡と、20世紀最大の天文学者の挫折

骨の髄まで観測家 より

5m望遠鏡は再研磨、再メッキされて1949年末にはいよいよ完璧な状態で使えるようになりました。1950年の春には、ハッブルの容態もかなり安定していました。戦後、アダムス台長は、ハッブルの仕事ぶりには干渉せず自由にさせていました。新台長になったボーウェンも敬意を払って接してくれることがわかり、ハッブルは自分の存在感を示す場となる望遠鏡観測計画委員長の仕事にも、あまり関心を示さなくなっていました。本来は議論すべき内容が多くあるはずでしたが、この会議はいつも30分で終わるようになりました。
ですが、少し健康を取り戻したハッブルは、状態が良くなった5m望遠鏡でぜひとも観測したかったに違いありません。10月には主治医の許可を得て、18ヵ月ぶりの観測に復帰します。観測を終えたハッブルは上機嫌だったそうです。やはり彼は骨の髄まで、根っからの観測家だったのでしょう。
ウィルソン山の語り部ニコルソン氏は「ハッブルは台長になっていたら不評を買い、失脚していただろうから、台長に選ばれなくてむしろ幸運だった」と言っていました。
ちょうどこの頃、ヒューマソンも、みずへび座の銀河で毎秒6万1000kmの後退速度を確認することに成功しています。

ハッブル逝く より

1953年9月28日の朝、サンタバーバラの研究所にいつものとおり出かけたハッブルは、昼食のために3km先の自宅に向かって歩いていました。車で出かけていたグレースは、偶然、歩いている夫を見つけて車に乗せます。他愛のない話をしていたグレースは、やがてハッブルの様子がおかしいことに気づきます。自宅に着く頃、ハッブルは何か言おうとしましたが、意識を失ってしまいました。脳卒中を起こして、ほぼ即死状態だったそうです。64歳の誕生日を迎える3週間前のことでした。
天文台長になり損ね、自分の提案した観測計画も皆から賛成してもらえなかったハッブルは、、体調を崩してから病気になったのでしょう。「自分が死ぬときは静かに消えたい」とグレースにもらしていたそうです。

グレースは、ハッブルの死を誰にも知らせず、葬式もせずに、翌日には遺言どおりに遺体を火葬しました。土葬が一般的だったにもかかわらず、あえて火葬を選んだハッブルの心境はどのようなものだったのでしょうか。ヒューマソンやサンディッジも別れを告げる機会がなく、遺灰を納めた壺がどこに埋葬されたかさえも公表されませんでした。

ハッブルの死は、新聞大手の「ニューヨーク・タイムズ」などでも報道されました。後にヒューマソン、アダムス、メイヨール等が追悼記事をいろいろな出版物に寄稿しています。アダムスは、ハッブルの経歴と業績を詳しく述べて「彼の死が天文学界にもたらす損失ははかりしれない」と述べています。ハッブルの行状に手を焼いていたアダムスも、彼の業績には同じ天文学者として、敬意を抱いていたのでしょう。
ハッブルが亡くなった後、グレースはノーベル賞選考委員のエンリコ・フェルミとチャンドラセカールから、「ハッブルを物理学賞の候補に推薦していた」と聞かされました。しかし、ノーベル賞は存命の人にしか授与されません。ハッブルはまさに大事なときにこの世を去ってしまったのです。

20世紀最大の天文学者 より

1969年にアポロ11号で月麺に人類を到達させたNASAは、1977年に宇宙望遠鏡建設予算の議会承認を得て、宇宙望遠鏡の建設を進めました。そんななか、宇宙の新たな姿を見せてくれるこの望遠鏡を、エドウィン・ハッブルにちなんで、1984年に「ハッブル宇宙望遠鏡」と命名することが決まったのです。
「20世紀最大の天文学者」と呼ばれるにふさわしい業績を残しながら、周囲の人々との軋轢も多かった、ハッブル。成績優秀でハンサムなうえにスポーツ万能、という誰からもうらやましがれる資質を持ちながら、その人生をたどると、強すぎる自意識と屈折した劣等感を抱えていたようにも感じてしまいます。

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どうでもいい、じじぃの日記。
エドウィン・ハッブル
銀河の距離を測り、宇宙の膨張を発見し、人類の宇宙観を激変させた20世紀最大の天文学者。成績優秀、スポーツ万能、勤勉でハンサムなタフ・ガイだった。
しかし、その過剰な自意識はあちこちで摩擦を引き起こしていた。アインシュタインら同時代科学者たちと織りなす栄光と挫折の生涯。晩年のハッブルの心のうちはどうだったのだろうか。
「グレースは、ハッブルの死を誰にも知らせず、葬式もせずに、翌日には遺言どおりに遺体を火葬しました。土葬が一般的だったにもかかわらず、あえて火葬を選んだハッブルの心境はどのようなものだったのでしょうか。ヒューマソンやサンディッジも別れを告げる機会がなく、遺灰を納めた壺がどこに埋葬されたかさえも公表されませんでした」
晩年に同僚の天文学者とトラブルがあったとしても、周りの人々と訣別するかのような死に方をした。
発達障害のじじぃ。
なぜか、ハッブルの死に方は、ほっとされられる。