じじぃの「科学・芸術_39_ソンミ村虐殺事件の真相」

ソンミ村虐殺事件 (blogs.c.yimg.jp HPより)

ベトナム戦争虐殺事件〜ソンミ村事件〜 2010/12/4 Yahoo!ブログ
ソンミ村虐殺事件
虐殺は、トゥ・クン集落のトゥアン・イェン〔Thuan Yen〕小集落、別名ミライ第4地区、「ピンクビル」(アメリカ人がソンミ村にやってきたとき、彼らは、もともとからある境界を無視し、なんの断りもなく、ピンクビルという名前をそこにつけました)とされていた地区で起こりました。
そして、この大虐殺を直接に実行したのが、アメリカル師団第11旅団バーカー機動部隊でした。
http://blogs.yahoo.co.jp/marc310_99/27444380.html
『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』 M・スコット・ペック/著、森英明/訳 草思社 1996年発行
集団の悪について (一部抜粋しています)
1968年3月16日、バーカー任務部隊(機動部隊)の1小隊が南ベトナム」、クアンガイ省(現キアビン省)ソンミ村のミライ地区と呼ばれていた一群の集落に進撃した。小隊の任務は典型的な「索敵掃討」、つまり、ベトコン兵士を見つけだし、これをせん滅することだった。
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バーカー任務部隊の隊員は、基本的には、全員がなんらかのかたちで作戦に参加することになっていたが、直接作戦行動にあたっていたのは第11軽歩兵旅団歩兵第20連隊第1大尉のC中隊である。この中隊がミライ地区の集落に進撃したときには1人の戦闘員も発見できなかった。つまり、武装しているベトナム人はまったく見当たらなかったのである。また、中隊にたいして発砲する者もいなかった。そこにいたのは、武器を持たない女、子供、それに老人だけだった。
事件の一部は不明のままになっているが、ただ、明らかなことは、このC中隊の隊員が少なくとも500人から600人の武器を持たない村民を殺したということである。村民たちはさまざまなかたちで殺されている。ある場合には、隊員が民家の戸口に立、家のなかに小銃を乱射してなかにいた人間をやみくもに殺している。ほかの例では、逃げ出そうとした村民が子供を含めて撃ち殺している。最大の殺りくはミライ第4地区の集落で起こったものである。この集落では、ウィリアム・L・カリー中尉の率いる第1小隊が、村民を20人から40人ほどのグループに分け、小銃、機関銃、あるいは手投げ弾で殺している。もっとも、ミライ地区内のほかの集落でも、ほかの将校の指揮下にあった小隊はかなりの数の非武装住民を殺していることを忘れてはならない。
殺りくは長時間にわたって行われ、午前中いっぱい続いたが、これを制止しようとした人間が1人だけいる。この索敵掃討作戦を支援するために飛行していた4等准尉のヘリコプター・パイロットである。何が行なわれてたかは、空中からも見てとることができた。彼はヘリコプターを着陸させて隊員たちを説得しようとしたが、これは無駄だった。ふたたびヘリコプターを離陸させた彼は、司令部の上級将校に無線で連絡したが、この将校は関心を示さなかったという。あきらめた彼は自分の任務にもどった。
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にもかかわらず、あれほど長い期間この犯罪が外部に知られることなく過ぎたことには、いまひとつ、きわめて重大な理由があったと私は考えている。関係者に直接面接したわけでもない私としては単なる憶測として語る意外にないが、しかし、当時ベトナムに送られた数多くの兵隊と語る機会を私は得ており、当時の軍内部を支配していたものの考え方については知りつくしているつもりである。バーカー任務部隊の隊員が自分たちの犯した犯罪を告白しなかったのは、ある程度までは、自分たちが犯罪を犯したという「意識」が彼らになかったからではないか、というのが私の抱いている大きな疑念である。むろん、自分たちの犯した行為については彼らも知っている。しかし、その自分の行った行為の重大性や性格を彼らが十分認識していたかどうかとなると、これはまったく別である。なかには自分の罪の意識を隠していた者もいたとは思われる。しかし、それ以外の大勢の人間は、隠すべき罪の意識すら持っていなかったのではないかと私は疑っている。