山田良政・純三郎と孫文 (ca-ringo.jp HPより)
中国革命に生涯をささげた郷土の偉人 青森県りんご輸出協会
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『教科書が教えない歴史(3)』 藤岡信勝、自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
犠牲払い孫文を助けた山田兄弟 (一部抜粋しています)
中国の孫文の革命運動を助けた人物として宮崎滔天が有名ですが、滔天と並んで孫文が最も信頼を寄せていた日本人がいました。自伝の中で「革命のために疾走、終始怠らざる者は山田兄弟」と書いている山田良政、純三郎の兄弟です。
山田兄弟の兄良政は明治元年、弟純三郎は同9年に青森県に生まれました。良政は水産学校を卒業すると、海産物会社に入り、当時日本人はほとんど住んでいなかった上海でおよそ5年間にわたって、中国事情の研究や中国語を学ぶことに情熱を傾けました。日本に戻った良政は当時日本にいた孫文と出会い、革命運動を支援することを約束します。
1900年(明治33年)、孫文は台湾から指揮して、初めての武装蜂起である恵州事件を起こしました。現地の孫文軍は初めこそ優勢でしたが、武器の補充が続かず次第に孤立していきました。このとき、孫文から「今回は軍を解散して逃げるように」という内容の伝言を預かり、恵州の現地司令官のもとに届けたのが良政でした。良政の任務は伝言を届けるだけだったのですが、敗軍をそのままにして立ち去ることができず、革命軍の人々と最後まで戦い、亡くなったのでした。
孫文と良政とのつきあいはわずか2年ほどに過ぎなかったのですが、孫文にとって忘れることのできない人となったのです。1912年、辛亥革命の直後に日本を訪れた孫文は、良政の父と会い「良政さんが中国革命のために、外国人として初の犠牲者となってくださったことを、全中国国民を代表してお礼を申し上げます」と丁寧にあいさつしています。
兄良政の志を継いで孫文につくしたのが、弟の純三郎でした。純三郎は辛亥革命以降、孫文と彼に好意的な日本の有力者との間の連絡係を務めたり、追われる身の孫文やその部下をかくまうなど献身的な援助をしました。
辛亥革命後、実権を袁世凱に奪われ、第2革命にも失敗した孫文をはじめとする革命派は、当時、次の蜂起に向けて爆弾を製造していました。純三郎はこの爆弾を上海の自宅に預かりました。ところがある日、警察の捜査があるとの情報が入りました。爆弾を他の所へ移さなければなりません。男では人目を引くというので運搬には純三郎の妻、喜代があたりました。喜代は乳母車に爆弾を隠し、石だらけの悪路を運んだのでした。
1916年(大正5年)5月、純三郎の家で孫文の側近の陳其美が暗殺される事件が起こりました。このとき幼かった純三郎の長女も巻き込まれ、大ケガをしました。
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また、事件が純三郎の家で起きたため、彼を疑った革命党員もいましたが、純三郎はただ耐え、弁解はしませんでした。そして、長女の後に生まれた子供たちに「お姉さんはわが家の宝だよ。日本と中国の友好の証しだよ。よく覚えておきなさい」と諭したといいます。
孫文もまた純三郎の家族を気にかけ、特にこの事件直後に生まれた長男をかわいがりました。病気の重くなった孫文の基に届けられた長男からのお見舞い電報に、孫文は、「学ヲ磨き、成長ノ後二東亜ノ為尽クサレヨ」と答えています。
純三郎は孫文の臨終に際しても、側近とともに立ち会った唯一の日本人でした。