じじぃの「人の死にざま_1663_神田・隆(俳優)」

神田隆

神田隆 shinda ページ!
神田隆(かんだたかし 本名:神田澄孝 1918年4月14日生) 俳優。
東京出身。東京帝国大学文学部仏文科を卒業後、日本出版文化協会に入るが、豪快なマスクと雄弁を映画評論家の内田岐三雄に注目され松竹大船に入社。しばらく代表作に恵まれなかったが、復員後の1947年に映画『象を喰った連中』の細菌研究所員の役が好評となり、映画『真空地帯』、『日の果て』などの独立プロ作品に出演。
1986年、『必殺仕事人V・激闘編』最終回の撮影後、帰宅途中に京都駅新幹線ホームのエスカレーターで狭心症の発作を起こして転倒し、京都市内の病院に搬送されたが、頭蓋骨骨折でそのまま帰らぬ人となった。
1986年7月13日死去(享年68)。
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『あの世心得。』 永六輔/著 文春ネスコ 2003年発行
不慮の事故で迎えた最期 神田隆(俳優) (一部抜粋しています)
コメディアンにはどういうわけか劣等感に洋服を着せたような人が多いが、コリューシュと西川きよしのケースは、その劣等感の補償の方法における東西の違いというものを考えさせてくれる。向こうは徹底的に権力に逆らい、権力をコケにし、こっちは限りなく権力にすり寄っていく。
しかし、劣等感にもいろいろあるもので、東大卒の学歴を生涯の劣等感とした人がいる。俳優の神田隆。
生前、さる週刊誌(『週刊読売』 1975年)にこう語っている。
「小さいころのことですが、おばあちゃんが僕の手を引いて赤門の前まで生き、菊の御紋章をさしてこう言うんです。”ここは一番いい学校だから、お前もここへ来るんだよ”。この言葉が効いたんでしょうかね、なんとなく入学したのが昭和13年のことです。 ところが、なんともいやなところで、どうしても好きになれない。専攻を決めるのに、いちばん東大らしくないところを、と選んだのが仏文です。そのとき同級生だったのが、中村真一郎福永武彦です。で、卒業したのが、病気のために1年遅れて17年。本の統制会社に勤めましたが、配属された企画課の課長が南條範夫、係長が杉浦明平、ヒラが僕と柴田錬三郎でした。 このとき偶然の機会に松竹に入社し、以来役者稼業ですが、この30年というもの”東大出”の看板をなんとか消そうと努力してきたんです」
特攻刑事や下士官の役をやらせると、ほんとに無気味で怖かったが、現実には特高や公安に追われる立場で、現に1950(昭和25)年にはレッドパージで松竹を追われている。
テレビ映画撮影のため京都駅に着いたとき、エスカレーターの上で、持病の心臓の発作で倒れ、頭蓋骨骨折で死亡。映画でもテレビでも、畳の上では死ねない役柄が多かっただけに、せめて畳の上で大往生させてあげたかったという気がする。