じじぃの「人の生きざま_193_大島・渚」

大島渚さん死去】日本がつまらなく…坂本龍一大島渚さんから「ひきょう者だ!」 (追加) 2013.1.23 MSN産経ニュース
怒られたことに感謝−。肺炎のため15日に死去した映画監督、大島渚さん(享年80)の葬儀・告別式が22日、東京・築地本願寺で営まれ、世界的ミュージシャン、坂本龍一(61)やジャーナリスト、田原総一朗氏(78)らが弔辞を述べた。坂本らは「ひきょう者!」「バカヤロー!」と怒られた思い出を懐かしそうに披露。そんな激情家だった夫を優しく包むように、妻の女優、小山明子(77)が喪主あいさつに立ち、永遠の別れを告げた。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130123/ent13012306250001-n1.htm
クローズアップ現代 「君は“怒るオトナ”を知っているか〜映画監督・大島渚〜」 (追加) 2013年4月25日 NHK
【キャスター】国谷裕子 【ゲスト】井光太(ノンフィクション作家)、樋口尚文(映画監督)
今年1月に亡くなった映画監督・大島渚。代表作「戦場のメリークリスマス」をはじめ、日本映画界に新風を吹き込んできた。その一方で、出演したテレビ番組で共演者を「バカ野郎!」と遠慮なく怒鳴りつける大島監督の姿は人気を博した。そもそも大島監督が作品に込めてきたのは、貧困や差別などの「不条理」に対する強烈な“怒り”だ。今回初めて公開された、書斎にうず高く積まれた大量の創作ノートや数十年以上続けていた若者たちとの往復書簡の数々。そこには、「大のオトナがあえて“怒り”を隠さないことこそが社会を良くすることに繋がる」という大島の思いが込められていた。大島と手紙のやりとりを続けていた当時の若者たちの証言や活動を中心に、大島監督の“怒り”が現代社会に何を投げかけているのかを見つめる。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3341.html
大島渚 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B8%9A/1525/
大島渚 『青春残酷物語』 予告編 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=Toi1RwMp7CQ
戦場のメリークリスマス 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=ZY5J03EDe9k
野坂昭如大島渚流「緊張と緩和」 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=n1CNy0eIzuY
大島渚 ウィキペディアWikipedia)より
大島渚(おおしまなぎさ、1932年〈昭和7年〉3月31日 - 2013年〈平成25年〉1月15日)は、日本の映画監督。夫人は女優の小山明子
【概要】
1959年に『愛と希望の街』で映画監督デビュー。社会性の高い作品に特徴があり、権力機構に侮蔑される側にいる人間の屈辱感を厚みを持って描き出し、権力に闘争的に対峙する作品は日本国内で早くから注目を集め、松竹ヌーベルバーグの旗手とも呼ばれた。1961年に松竹を退社するとテレビドキュメンタリーにも活躍の場を広げ、政治的・ジャーナリスティックな作品を手がけた。1976年の『愛のコリーダ』(L'Empire des sens)、つづく『愛の亡霊』(Empire of Passion)で、人間の愛欲の極限を描き出し、国際的な評価を確固たるものにした。このほか世界的に話題を呼んだ映画作品に『戦場のメリークリスマス』(1983年)、『御法度』(1999年)などがある。
海外における知名度は高く、アレクサンドル・ソクーロフテオ・アンゲロプロスマーティン・スコセッシチェン・カイコーなど大島を敬愛する著名な映画監督・評論家は少なからずいる。ジャン=リュック・ゴダールが『映画史』において取り上げた日本人監督は溝口健二小津安二郎勅使河原宏と大島の4人だった。
テレビ出演も多く、1980年代後半から『朝まで生テレビ』(テレビ朝日系)のレギュラーパネリストとなり、評論やコメンテーターとしても活躍した。

                              • -

『もし、日本という国がなかったら』 ロジャー・パルバース/著、坂野由紀子/訳 集英社インターナショナル 2011年発行
『戦メリ』の助監督をしてわかったこと (一部抜粋しています)
1982年6月に、スーザンと、38歳になったぼくは、とても素敵な旅に出発しました。
メルボルンから東京に飛び、成田空港に着くとそのまま市川の井上邸に直行しました。ひさし先生にスーザンを会わせたことはなかったので、早く紹介したかったのです。(その数年後、彼も好子さんと離婚して米原エリさんと再婚することになる)。その数週間後には『戦場のメリークリスマス』(『戦メリ』)の衣装合わせが予定されていました。ぼくはそれまでの間にぜひ、スーザンをぼくの大好きな東北地方に連れて行こうと思いました。
      ・
そしてぼくらは『戦メリ』のスタッフや俳優たちと合流すべく、東京に帰りました。日本でいう「クランクイン」(往年のハリウッドで、カメラが文字通りクランクで回されていたころの用語に由来する)が数週間後に迫っていました。大島渚とぼくは、その時点ですでにかなり親しい友人になっていたけれど、まだ彼もスーザンには会っていませんでした。しかし、彼女とぼくが一緒にいられるようにとの彼の配慮で、スーザンにも撮影現場での仕事が与えられました。メルボルンで看護婦として働いた経験を買われ、『戦メリ』のスタッフの看護係になったのです。映画の最後のスタッフ・ロールにも、その肩書きと旧姓のスーザン・「ニコラス」でクレジットされています。
作中の戦争俘虜(ふりょ)の包帯はすべてスーザンが巻いたから、彼女は芸術面でもあの映画に貢献したと言えます。
ぼくは映画監督としての大島渚に深い尊敬の念を抱いていました。いまでも彼は小津安二郎黒澤明と方を並べる監督だと思っています。ぼくはその後、山田洋次氏や篠田正浩氏とも友人になり、篠田監督の作品(『スパイ・ゾルゲ』)には出演もしました。しかし、ぼくが特に共感を覚えるのは、一時代の若者の声を代弁した大島なのです。
大島さんは1981年8月にオーストラリアに来たことがありました。彼の作品の回顧展と講演会ツアーを主催したいというオーストラリア国立映画協会の招きに応じて、やって来たのです。そのガイド兼通訳がぼくでした。メルボルンシドニー、キャンベラ、と一緒に移動するうちに、ぼくらは映画の真髄とは何かについて意見が一致していることがわかりました。その数年後に彼はぼくにこんなことを言いました。
「ぼくは根本的に、1つの極限状況みたいなところに人間を追い込んで、そういうところで人間の反応を見るのが好きです」
ぼくは彼の「極限状況」という言葉の使い方が好きです。1960年に製作された『太陽の墓場』で、彼は大阪のドヤ街の暮らしと、10代の若者がそこで生き延びるための掟(おきて)を描きました。輝かしい経済成長期の真っただなかにある日本人の目を、一人の映画監督が、荒涼たる暮らしぶりの日本の労働者と、そのなかでも疎外感の強い若者に向けさせたのです。なんと予言的な作品だったのでしょう(後年、村上春樹が扱ったテーマの中には、1960年代の大島の映画によく似たものがある)。大島さんの心のなかで、オーストラリアは特別な位置を占めていました。というのも、彼の映画が海外の映画館で初めて上映されたのが、1968年のアデレード芸術祭の映画部門で『少年』が上映されたときだったからです。
ちょうどメルボルンにいるときに、ぼくの芝居が2つ上演されていたので、彼に2つとも見てもらいました。後でわかったことですが、それが、ぼくを『戦メリ』の助監督にするという決断に大きな影響を与えたようです。その仕事にふさわあいい日本語力のある外国人は、ほかにもいました。しかし大島さんは、俳優とうまく話せる人、つまり、外交的に優しく話せる人間を求めていたのです。通訳が誤った口調で話せば、俳優は腹を立てて、よい演技の機会を失ってしまいます。
メルボルンからシドニーにむかう飛行機のなかで、大島さんから、英語で書かれた1冊の台本を手渡されました。それは『戦メリ』の脚本でした。ぼくはすぐに読み始め、着陸の寸前に読み終えました。
「どう思う、ロジャー?」と聞かれました。
「いや、傑作ですね。お作りになるんですか、これ?」
「まあ、たぶんね」
彼が日本に帰国したあと、7ヵ月以上も音沙汰がなかったけれど、4月のある日、一通の手紙が届きました。それは1枚だけの、もちろん日本語で書かれた手紙でした。そこには『戦メリ』を作る費用のめどが立ったので、夏から撮影を開始するが、ついてはぼくに助監督をやってもらいたい、と書いてあったのです。

                              • -

大島渚 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B8%9A&gs_l=hp....0.0.0.32...........0.&sa=X&oi=image_result_group