じじぃの「人の生きざま_569_神谷・力(トリカブト殺人事件)」

1986年 トリカブト保険金殺人事件 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1TFXq7CL6Wk
ヤマトリカブト

トリカブト保険金殺人事件 ウィキペディアWikipedia) より
トリカブト保険金殺人事件とは、1986年(昭和61年)5月20日に発生した保険金殺人事件。
凶器として、トリカブト毒(アコニチン)が用いられたことが大きく報じられたほか、司法解剖を行った医師が被害者の血液などを保存していたため、その後の分析で殺人であることが発覚した事件である。
犯人である神谷力は、事件が発生するまでの過去5年間の間に、事件の被害者となった女性(事件当時33歳)を含め3人の妻を亡くしていた。
1991年(平成3年)6月9日、警視庁は神谷を別の横領事件で逮捕した。その捜査の過程で、5年前の妻の死が保険金目当ての殺人であった可能性が浮上し、7月1日に警視庁は殺人と詐欺未遂で再逮捕した。
1994年(平成6年)、東京地裁は神谷に対し、求刑通り無期懲役の判決を下した。神谷は控訴したが、二審の東京高裁も一審判決を支持し、神谷は最高裁に上告。2000年(平成12年)2月21日、最高裁は、神谷の上告を棄却したため、神谷の無期懲役が確定した。
2012年(平成24年)11月、神谷は大阪医療刑務所で病死した。73歳没。

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『事件からみた毒 トリカブトからサリンまで』 A.T.ツウ/編、大野曜吉/著 化学同人 2001年発行
一酸化炭素毒殺事件とトリカブト事件 (一部抜粋しています)
さて、夫は保険請求したものの、保険会社から支払いを拒否され、1986年12月、保険会社4社を相手に民事訴訟を提訴した。1990年2月、東京地裁で第一審判決がだされ、夫は勝訴した。とはいってもその内容は、「動機・目的・経緯などの点で大きな疑問を抱かざるをえない」とした微妙な判決だった。内容はともかく、実質では完全に敗訴した保険会社はただちに東京高裁に控訴した。そして、第一審ではあえて争わなかった死因について、筆者に証言を依頼してきた。
医師の守秘義務との関係もあり、警察庁の意向を確認したりなどの経緯があったが、結局、証言を引き受けることになり、1990年10月11日、東京高等裁判所で「死因はトリカブト中毒による急性心不全」と初めて死因を公にする証言を行った。その直後、夫が訴訟自体を取りさげてしまったことから、テレビや週刊誌などのマスコミが一斉に報道することになった。この時点で、それまで「3人の妻変死体の怪」というような記事だったものが、「トリカブト殺人疑惑」と変わったのである。
12月13日には、TBSのスクープで、トリカブトの入手経路が福島県白河の園芸店であることが判明した。
翌1991年6月9日になり、夫は勤務していた会社での横領容疑でまず警視庁に逮捕され、さらに7月1日、3番目の妻殺人容疑で再逮捕、23日、東京地検によって起訴された。
ところで、夫が猛毒のクサフグを大量に購入していたことが逮捕後判明した。フグの肝臓・卵巣などには、猛毒のテトロドトキシンが含まれ、ヒトの致死量は約2ミリグラムといわれている。クサフグは、フグのなかでも最も毒性の強い種類である。そして、東京大学農学部の野口玉雄博士によって、琉球大学に保存してあった被害者の血液から実際にフグ毒が検出されたのである。そこで、アコニチンとテトロドトキシンの両方の毒について、死亡に及ぼす影響を検討する必要性に迫られた。
トリカブトに関する文献を、再度読み直していくうち、そのなかにテトロドトキシンの記載があることに気がついた。そして、1980年のcatterallの総説にたどり着いた。それによると、興奮性細胞膜のナトリウムチャンネルに作用するトキシン(毒成分)は、レセプターサイトから3群に分けられる。その後1988年の論文では、15群に分類されている。
いずれにしても、第1群であるテトロドトキシンは、細胞膜の興奮時のナトリウムの流入を阻害するが、第2群であるアコニチンは逆にチャネルを開き、ナトリウムの細胞膜への流入を促進し、膜を活性化する、とされている。したがって、フグ毒であるテトロドトキシントリカブト毒であるアコニチンとは、非競合的拮抗物質ということになるのである。
そうだとすれば、事件の大きな謎といわれ、夫がアリバイを主張する根拠となっている、那覇空港で別れてから発症するまでの1時間半の空白が説明できる可能性がある。つまり、互いに拮抗するとすれば、一方がある程度代謝されてから、残ったほうの症状が発現してくるのではないかと考え、早速、その考え方を警視庁に知らせた。
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さて、被告人は第一審の経過のなかでトリカブト毒やフグ毒を抽出し所持していたことは認めたものの、それらを妻に投与したことは否認し続け、有罪判決後ただちに控訴した。
1997年2月から、控訴審公判が東京高等裁判所を舞台に開始され、1999年4月控訴棄却の判決がくだされた。