じじぃの「神話伝説_144_桓武天皇(平安京に遷都した天皇)」

【センター日本史】平安遷都と藤原氏桓武天皇の政治改革 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Pd8QQlDeAs8
平安京 復元模型

桓武天皇平安京の誕生と人々のくらし〜 2014年5月21日 NHK for School
奈良時代の終わりに即位した桓武天皇は、都を移すという大胆な“ひっこし”を考えました。
当時都があったのは、今の近畿地方です。桓武天皇が即位したときの都は平城京で、今の奈良市にありました。この大きな都を今の京都のあたりに移すというのが桓武天皇の計画でした。なぜ都を移すのかというと、それは政治のため、そして平和のため。もっといえば、人々のためということでした。
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?das_id=D0005120234_00000
『「歴史」の意外な結末―事件・人物の隠された「その後」』 日本博学倶楽部/編 PHP文庫 1998年発行
平安京」が「京都」となったのはいつ? (一部抜粋しています)
794(延暦13)年に桓武天皇(737〜806、在位781〜806)が造営した平安京は、現在の京都の市街とは、町の中心も形もだいぶ違う。
平安京の中央を走る朱雀大路すざくおおじ)は、現在の京都市の中央を走る烏丸通りより西の千本通りだし、平安京の内裏(だいり)と今の場所とは位置が違う。
呼び方も、初めは「平安京」と呼ばれていたのが、いつのまにか、「京都」に変わっている。
平安京は、結局、どうなったのだろう? いつごろ、どういう経過で、京都に変わっていったのだろうか?
平安京は、朱雀大路を境に、西が「右京」、東が「左京」と呼ばれていたが、河川が多いという地理条件のためか、右京のほうが早くすたれはじめる。
遷都後、20年か30年ほどのうちに、早くも崩壊の兆しが現れはじめ、4、50年もすれば、都のほとんどが東に移ったという記述が見える。
そして960(天徳4)年には、内裏が火事で焼け、天皇がしばらく冷泉院に移ることとなる。
もちろん、元の内裏が再建されればまた戻るはずだったのだが、平安末期の1177(安元3)年、「安元の大火」と呼ばれる火事で大極殿天皇が政治をみ、朝参や即位など、国家の大礼を行なうところ)が焼けたときは、もう再建されなかった。
名称が「平安京」から「京都」に変ったのは、どうやら院政の時代ごろかららしい。