じじぃの「人の死にざま_1568_平・将門(関東の豪族)」

真相検証! 平将門首塚の怪 怨念の影か! 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RqN-mShbMH4
平将門

平将門 ウィキペディアWikipedia)より
平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。
平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2ヵ月たらずで藤原秀郷平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。

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『学校では教えてくれない日本史の授業 悪人英雄論』 井沢元彦/著 PHP文庫 2015年発行
平将門――当時は極悪人、200年後だったら大英雄 (一部抜粋しています)
平将門はなぜ天下の大悪人と言われているのでしょう。
それは、彼が朝廷に反旗を翻し、自らを「新皇(しんのう)」、つまり「新しい天皇」と称したからです。道鏡の場合もそうでしたが、日本における最大の悪人の定義は「皇位を狙う者」ということのようです。
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将門が生きたのは10世紀です。武士はまだ生まれたばかりで、それぞれの武士団がそれぞれの主義主張、思いのもとに行動していました。何が言いたいのかというと、一口に武士と言っても、さまざまな考え方の者がいたということです。
後世の人間である私たちからすれば、朝廷の理不尽な搾取に叛意を示した将門の行動に理があるとは思いますが、当時の武士の中には、平将門という男は、畏(おそ)れ多くも天皇様に逆らったうえ、自ら天皇を名乗るとんでもない反逆者だ、と信じた人たちもいたということです。そして、その代表が、将門を討つことになる藤原秀郷という武士だったのです。
私たちは「武士」と言うと江戸時代の印象が強いので、国家を専門に守る兵のように思ってしまいがちですが、武士が国家の意思のもとに動くようになるのは鎌倉武士以降のことです。この時代の武士はあくまでも私的な武装集団です。勝手に武装し、勝手に土地を占有している人間にすぎません。
ですから、本来はそれを国家が利用するというのはおかしいのですが、財政の窮迫している国家は、苦肉の策として「毒を以て毒を制す」ことにしたのです。もちろん、そこにはお金ではない「報酬」は約束していたと思います。事実、将門討伐に成功した後、彼はその功によって従四位下という高位に叙せられ、下野・武蔵の二国の国司鎮守府将軍の職に就いています。
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でも将門が、少なくとも関東の民にとって間違いなく英雄だったことは、その後、彼が関東の鎮守、つまり「守り神」として祀られていることからもわかります。
将門が命を落としたのは、下総国の岩井というところでした。その将門の首は、秀郷によって京に届けられ、さらし首になっています。
ところが、ここから先は伝説ですが、その将門の首は一夜にして関東に飛び帰ったというのです。その飛び帰った首が祀られているのが、東京都千代田区大手町一丁目にある有名な「将門の首塚」です。
昔からこの首塚に触れると祟りがあると言われ、実際、戦後にこの首塚GHQ(日本占領軍総司令部)が壊そうとしたところ、作業に当たった人が突然死んでしまったということがあり、それ以来この首塚に手を触れる者はなく、今も近隣の人々によって大切に守られています。
ちなみに、関東の守り神「神田明神」は、もともと将門の体を祀った場所にあったもので、神田という名も「からだ」を語源としていると言われています。
ですから、将門は日本三大悪人の一人とされていますが、本当の意味では悪人ではないと私は思っています。彼は、実際に土地を開拓し、汗水垂らして働きながら、その収穫のほとんどを中央に搾取されていた民の不満と期待を受けて立ち上がった「民衆の英雄」だったのです。
そして、もう賢い読者はお気づきだと思いますが、この将門が抱いた夢を叶えたのが、約200年後に登場し、日本初の武士政権を樹立する源頼朝なのです。いくら頑張っても正式な土地の所有者として認めてもらえない武士の立場を国に認めさせることをスローガンに、頼朝は流人の身でありながら朝廷を倒し、武士政権を樹立することに成功したからです。