【知られざるニッポン】vol.49 平清盛が考えた!? 奇想天外な厳島神社の設計
ニッポン旅マガジン
中世の日本を代表する建築物といえば、その筆頭が安芸の宮島(広島県廿日市市)にある厳島神社。
世界文化遺産にも登録される厳島神社は、仁安3年(1168年)頃、出家後に日宋貿易の拡大を図る平清盛が現在と同様の社殿を造営したもの。奇抜で大胆な設計思想は平清盛が考えたとも推測されています。その奇想天外さを紹介しましょう。
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すぐ忘れる日本人の精神構造史
【目次】
はじめに
序章 民俗学の視点で日本の歴史を見るということ
第1章 日本人のマインドは、縄文ではなく稲作から始まった
『すぐ忘れる日本人の精神構造史―民俗学の視点から日本を解剖』
新谷尚紀/著 さくら舎 2024年発行
生活が苦しくても「しかたがない」と我慢する、責任追及をせず問題点をふわっとさせたまま何となく進み、やがて忘れる――そんな日本人の思考や行動の傾向性は「稲作を土台に、律令制+荘園制+武家政権の時代」を経て培われてきたといえる。本書では日本の歴史の経歴、慣習の積み重ねを民俗学の視点から歴史を追跡することで、どうやってそのような日本人が育まれたのかを知り、これからの社会のあり方、日本人のあり方を考える。
第2章 武家政権が起こした社会変化 より
平清盛の台頭から武家の政権の誕生へ
武士とは何か
1945年(昭和20)8月の敗戦によって自信喪失になっていた日本で、一時期ベストセラーになったのが、アメリカの女性文化人類学者ルース・ベネディクト(1887~1948)の『菊と刀』でした。
本の内容としては日本人の文化を「恥の文化(shame culture)」、西洋人の文化を「罪の文化(guilt culture)」と単純な方にはめる解説で、学術的には必ずしも正しくありません。しかし敗戦国日本の中には、アメリカの学者がそう言ったということならたしかにそうかと思う読者も多く、大ベストセラーになったのでした。日本人が言っても無視するのですが、欧米人の学者が言えば納得する、というのが日本人のクセで、それは昔もいまも変わらないようです。
本の題名になっている『菊と刀』というのは、天皇制と武家政権という相補的なふたつの権力が日本の歴史と文化の柱になっている、という見方を示すものです。天皇を崇拝しながら、現実的にはそういえるのかもしれません。
天皇とは、いまでも毎年の新嘗祭や代替わりの大嘗祭(だいじょうさい)など、いわば「稲の王」としての歴史を積み重ねれいる存在です。武士も本来は、その天皇の支配のもとで、公領や荘園で生産される稲殻を租税として農民から取り立てる役目として生れてきた階級でした。治安の維持と年貢米の徴収、それが武士にとって第1の役目だったのです。
日本を変えた平清盛
伝統的な朝廷の権力機構のなかで、武力を背景に新たな政権をつくったのが平清盛(たいらのきよもり、1118~1181)です。
12歳で従五位下の左兵衛佐(さひょうえのすけ)、18歳で従四位下、20歳で肥後守(ひごのかみ)、29歳で安芸守(あきのかみ)、43歳で正三位(しょうさんみ)の参議へという異常な昇進を遂げながら、その一方、39歳で保元の乱(1156年)、42歳で平治の乱(1159年)を勝ち抜き、権力を掌握したのでした。
1167年(仁安2)2月に50歳で従一太政大臣に昇りつめますが、5月にはすぐ辞任して、翌年に出家しました。1171年(承安元)に娘徳子(とくこ)を高倉天皇のもとに入内させ、1180年(治承40)2月21日、その皇子数え年3歳(満1歳2ヵ月)が践祚(せんそ)し、4月22日に安徳(あんとく)天皇として即位しました。
その朝廷における異常な昇進の自背景には何があったのか。それには、清盛が血脈的に白河院の御落胤(ごらくいん)であったということがありました。そして実質的には、桓武天皇から出た平氏、桓武平氏の流れを汲む平忠盛(たいらのただもり)の嫡子として、武家を統率する力をもっていました。まさに私的な先生君主となっていた白河院の院政政権と、その私的な武力集団としての武士との結びつき、それが奇しくも清盛の武家政権を誕生させたのです。
白河院は多くの女性たちとの間にとかくの関係がありましたが、その1人、祇園女御(ぎおんにょうご)の妹が産んだ子が清盛だというわさがあり、『平家物語』にも、白河院が平忠盛に与えたという和歌が紹介されています。
「泣きすと ただもり(忠盛)たてよ 末の代に きよくさかふる(清盛) こともこそあれ」
という歌です。
その平清盛の政権が実行したおもな政策で、そのあとの日本の政治や文化に大きな影響を与えたものを挙げてみると、次のような重要な事柄があります。
第1に、武家の政権の樹立です。つまり既得権益にしがみつく旧来の権力集団の解体に着手したことです。ここでいう旧来の権力集団とは、院をはじめ院宮王臣家と呼ばれる皇族や、摂関家を中心とする貴族たちのことで、清盛は彼らの利益独占を解体していったのです。それにより、武家政権が清盛以後も続くことになったのです。
また莫大な荘園とその収益を集中させて僧兵を擁し、公家政権に介入して権威を振るっていた南都北嶺(なんとほくれい)と呼ばれる仏教勢力の排除も行いました。なかでも東大寺や興福寺に対する南都焼討ちがよく知られており、権益を奪われていった仏教勢力の側が書き残した貴族の日記類、『平家物語』などの軍記物、慈円(じえん)の『愚管杪』などの歴史書では、いずれも平清盛は仏敵とされて強く非難されています。しかし、それにより旧来の南部北嶺の仏教とは別に、こののち新たに宋から渡来した禅宗などの新しい仏教と学問とが武家の間に受け入れられていくことになりました。
第2に、日宋貿易の開始です。それにより宋銭(そうせん)の輸入、高度な土木建築技術や博物学、医薬学などの先端学術の導入が実現しました。その基礎構築によって日本の中世の歴史が開かれていったのです。
宋銭の輸入は、新たに貨幣制度を発展させ、物流の活性化を促進させました。