じじぃの「神話伝説_139_天路歴程(寓意物語)」

Full: The Pilgrim's Progress by John Bunyan 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=V_c22M_Z9jc
天路歴程 日本語字幕(The Pilgrim's Progress) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bjA0QSTXnpw
ジョン・バニヤン

天路歴程 ウィキペディアWikipedia)より
天路歴程』(てんろれきてい)(英: The Pilgrim's Progress、 Part I (1678年)正篇、 Part II (1684年)続篇)は、イギリスのジョン・バニヤンバンヤン、バニャンとも)による寓意もの語。
プロテスタント世界で最も多く読まれた宗教書とされ、特にアメリカへ移住したピューリタンへ与えた影響は『若草もの語』にも見える。
"City of Destruction"(「破滅の町」)に住んでいたChristian(クリスチャン 基督者)という男が、「虚栄の市」や破壊者アポルオンとの死闘など様々な困難な通り抜けて、「天の都」にたどり着くまでの旅の記録の体裁をとっている。
この旅はキリスト者が人生において経験する葛藤や苦難、そして理想的なキリスト者の姿へと近づいていくその過程を寓意したものであり、登場人ものや場所の名前、性質などは、それらのキリスト教的な人生観・世界観に基づくものになっている。

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天路歴程 正篇』 ジョン・バニヤン/著 池谷敏雄/訳 新教出版社 1976年発行
解説者の家のほこりの広間 (一部抜粋しています)
さて、と解説者は言った。私が君にまずこの絵をお見せしたのは、この絵の人ものこそ君の行こうとしている所の主が、道中で君が出会うすべての困難な場所で君の導き手となる権能を与えられた唯一の方であるからです。そういうわけだから、私が君に示した事によく注意を払って、見た事をよく心に留めておきなさい、旅をしているとき、だれか正しく導くと見せかけるような人に会うといけないから。彼らの道は死に下って行くのです。
それから彼は基督者の手をとって、非常に大きな広間につれて行ったが、そこは一度も掃除をしたことがないので、ほこりが一杯であった。しばらくそれを見渡した後、解説者は男を呼んで掃除を命じた。さて彼が掃き始めると、ほこりがあたり一面に飛んだので、基督者は息がつまりそうになった。そこで解説者は側に立っていた乙女に水を持って来て、部屋にまきなさいと言った。乙女がそのとおりとすると、気持よく掃き清められた。
そこで基督者は言った、これはどういう意味でしょうか。
解説者は答えた、この広間は福音のさわやかな恵みによって一度も清められたことのない人の心です。ほこりはその原罪であり、内部の腐敗であって、それが彼の全人格を汚してしまったのです。最初に掃除しかけた男は「律法」ですが、水を持って来てまいた乙女は「福音」です。さて、君が見たとり、初めの男は掃除を始めるとすぐほこりがあたり一面に立ったので彼は部屋を清めることができず、君はそのために息がつまりそうになりました。これは君に次のことを示すためです。すなわち、「律法」は(その働きによって)心を罪から清めないで、罪をあらわにして禁じるとき、かえってそれを魂の中によみがえられせ、力づけ、増大させる。つまり、律法は罪をおさえつける力を与えるものではない、ということです。
さらにまた君が見たように、乙女が部屋に水をまくと、それは気持よく清められました。これは福音がその美しく貴い感化をもって心に来ると、ちょうど乙女が床に水をまいてほこりをしずめたのを見たように、罪は克服され、魂はその信仰によって清められて、その結果栄光の王がその中に住まわれるのにふさわしくされるのです。
その上、私が夢で見ていると、解説者は彼の手を取って、小さな部屋に入れた。そこには二人の小さな子供がめいめい自分の椅子に腰かけていた。年上の方の名は短気児で、今一人の名は忍耐児であった。短気児はひどく不満のように思われたが、忍耐児の方はごく落ち着いていた。その時基督者は尋ねた。短気児の不満の理由は何ですか。解説者は答えた。彼らの家庭教師が一番いいものを来年の初めまで待たせようというのですが、彼は今全部を欲しいといってきかないのです。しかし忍耐児の方は喜んで待っています。
それから一人の人が短気児のところへ宝の袋を持って来て、その足下にあけるのを見た。彼はそれを取り上げて大喜びし、同時に忍耐児を笑った。ところがほんの暫く見ているうちに、彼はみんな使い果たして、残ったものはただぼろきれだけだった。
そのとき基督者は解説者に言った、もっと詳しくこのことを説明して下さい。
そこで解説者は言った。この二人の少年は象徴で、短気児は現世の人を表わし、忍耐児は来世の人を表わします。君がここで見たように、短気児は、今、今年の中に、つまり現世で全てのものを得ようとします。現世の人もまたそうで、よいものを今全部得なければ承知しません。よいものの分け前をもらうために来年、つまり来世までは待つことができないのです。「手の内にある一羽の鳥は、藪の中の二羽に相当する」というあのことわざは、彼等にとっては来世のよいものについての神のあらゆる証言よりも権威があるのです。だが君が見たように早くもすっかり使い果たして、やがて残っているものといってはただぼろだけになってしまいました。この世の終わりには、このような人は皆そうなるのです。
その時基督者が言った、今こそ分かりました。忍耐児が最も優れた知恵を持っていることが、それには多くの理由があります。第一に、彼は最もよいものを持つこと、第二に相手がただぼろしかない時に、彼は自分の栄光を持とうとしていることです。
解説者 いや、君はもう一つつけ加えるとができましょう。つまり、来世の栄光は決して尽きることがないということです。しかしこの世のものはたちまちなくなってしまいます。ですから短気児は自分がよいものを最初に得たからいって、忍耐児を笑う理由はないのです。そうなると忍耐児は最もよいものを最後に得たと言って短気児を笑わなくてはならないでしょう。最初のものは最後のものに席をゆずらねばなりません。しかし、最後のものは後をつぐものがないので、何ものにも席をゆずりません。ですから、最初に自分の分け前を得るものはそれを費やす時をどうしても持たねばなりませんが、最後にその分け前を持つものは、それをいつまでも持っています。それ故、金持ちのダイビーズ(金持)については次のように言われました。あなたは生前よいものを受け、貧乏人のラザロは悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえていると。
基督者 それで分かりました、今あるものを欲しがらないで、来るべきものを待つのが一番いいことですね。
解説者 君の言われることは真理です。「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」ですからね。ですが、これがそうだとしても、現在のものと、我々の肉欲とは互いに親しい隣りどうしであり、さらに、来るべきものと肉の思いとは互いに見知らぬものであって、そのため、前の二つはたちまち仲よしになり、後の二つには疎遠がつづくのです。