じじぃの「科学・地球_499_温度から見た宇宙・生命・チャンドラセカール限界」

【ゆっくり解説】ブラックホールを予言したインドの天才

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2R_89urAcpU

スブラマニアン・チャンドラセカール


チャンドラセカールとエディントン

チャンドラセカール (Subrahmanyan Chandrasekhar, 1910-1995) に関する本をようやく読み終えた。文庫版だが上下2巻にわたるかなり内容の濃い本である。
ブラックホールを見つけた男(原題:Empire of the Stars)」アーサー・I・ミラー著、阪本芳久訳、 草思社文庫

白色矮星は異常に重くて暗い天体の異端児だった。この頃には、それは燃え尽きた星の最後の姿だろうと考えられていた。星のエネルギーの起源は核融合かも知れない、と画期的なアイディアを提案したのはエディントンである。若い星では構成粒子の熱運動による圧力と放射圧が、重力と拮抗して大きさを保っている。燃料を使い尽くした星は収縮して、とてつもない高密度状態になり、すべての電子が原子から剥ぎ取られ自由な状態になっていると考えられる。重力崩壊に抵抗しているのはこの電子たちの圧力である。
ここで電子を古典的な自由粒子と考えると、理想気体の状態方程式から明らかなように、低温
   T → 0
の極限で重力崩壊は免れ得ない。この困った状況を救ったのはディラックの指導教官でもあったラルフ・ファウラーである。ファウラーは、すでに知られていた量子力学フェルミディラック統計をここに適用した。結果はめでたく、すべての白色矮星は有限の大きさで安定な平衡状態に落ち着くことになった。すなわち、電子の縮退圧が重力に抗して白色矮星を一定の大きさに保っているということになった。
http://www.p.s.osakafu-u.ac.jp/~kayanuma/chandrasekhar.html

『温度から見た宇宙・物質・生命――ビッグバンから絶対零度の世界まで』

ジノ・セグレ/著、桜井邦朋/訳 ブルーバックス 2004年発行

第6章 量子飛躍 より

量子世界と絶対温度

本書では、過去と現在における科学上の偉大なアイディアを探索する際の案内役として、温度を提案してきた。この筋書きにしたがって私は、身近な私たちの身体のことから始めて、プレート・テクノ二クスや遺伝子、そして、ビッグバン宇宙論を取り上げてきた。
本書で取り上げる最後の話題として、本章では温度という視点で量子力学を眺めてみる。量子力学は私たちの日々の生活にも関係しており、コンピュータのチップが働く理由や、水素が酸素を結合して水を作りだす理由を明らかにしてくれる。また別の分野では、なぜ太陽の中心核が私たちを温めてくれるのかとか、太陽が白色矮星となってもなぜ中心核は潰れないのかといった疑問に、量子力学は答えてくれる。温度は、これらすべての過程に深い役割を果たしているのである。

本章には2つのキーワードがある。それらは「若さ」と「絶対零度」である。
前者は若者と老人との論争をめぐるものである。よく言われることだが、数学者と理論物理学者は生涯で最高の仕事を30歳以前にやってのける。その理由はたくさんあるが、例えば、活力、野望、古い先入観念を打ち破る容易さなどがあげられる。
若い科学者の偉業については、多くの例がある。マクスウェルによる統計力学の発見、熱効率に関するカルノーの洞察などだ。さらに、1666年の奇蹟というものがある。この年、24歳だったアイザック・ニュートンは、微積分法と重力に対する逆二乗則の両方を発見したのだった。同様に印象深いのは、26歳のアルバート・アインシュタインによる1905年の業績である。それは、特殊相対性理論の定型化と新しい量子物理学の基礎の確立であった。
若者のひらめきは、1926年の量子力学の誕生にも顕著に現れた。量子力学は、全員が当時25歳だったポール・ディラック、エンリコ・フェルミ、ウェルナー・ハイゼンベルグ、それに、ヴォルフガング・パウリなどの導きによって急速に発展したのであった。しかし、事はそう簡単には運ばず、量子力学が形成された時に47歳だったアインシュタインは、この学問の執拗な批判者となったのだ。ここでは、相対論的な量子力学を用いて崩壊する星について説明したスブラマニアン・チャンドラセカールを取り上げて、この章を締めくくりたい。

チャンドラの旅

1920年代後半、年老いたアインシュタインが新しい量子力学を批判し(そして冷蔵庫を設計し)ていた時、10代のインドの若者が1人、量子力学相対性理論を必死で学んでいた。
1930年7月31日の午後、19歳のスブラマニアン・チャンドラセカールは、ボンベイからイタリア行きの船に乗った。イタリアは、ケンブリッジまでの旅で最初のヨーロッパの経由地であった。後にチャンドラという名で知られるようになる彼は、船がヴェニスに到着した時には太陽などの星の死についてある驚くべきことに気づいていたのだった。
1930年以前までは、すべての星が白色矮星として一生を終えるものと信じられていた。アーサー・エディントン卿はこの説を強く推していた。彼はイギリスの宇宙物理学において才能豊かな指導者であり、『星の内部構造』という本を書いていた。この本を、チャンドラは生まれ故郷のマドラスで勉強したのだった。この本は、彼がイギリスへの旅にもっていった3冊のうちの1冊であった。航海中チャンドラは、相対論的効果を考慮を考慮すると、白色矮星に対する量子力学的な取り扱いに何らかの違いが生じるのかどうかを考えていた。彼は、パウリの排他原理によって外向きの圧力が生じ、電子が白色矮星の収縮を防ぐということを知っていたが、そこに相対性理論が影響するのではないかと疑っていた。
チャンドラが相対性理論を考慮して計算したところ、驚いたことに、星が太陽に比べてかなり大きければ、電子圧は崩壊を抑えられないことがわかった。十分に大きな星は、冷たい白色矮星として静かに死ぬのではなく、異なった死に方をしなければならないのである。
チャンドラは、その後もこの問題を研究した。博士号を取得し、ケンブリッジのトリニティー・カレッジの研究員になった彼は、1934年に、太陽質量の1.4倍以下――チャンドラセカールの限界――の小さな星だけが白色矮星となって一生を終えるのだと、自信をもって発表した。これより大きな星は、さらに崩壊を続けるのである。
彼は、アインシュタイン一般相対性理論の擁護者であるえでぃが、自分の解釈を評価してくれるだろうと思っていた。しかし悲しいことに、チャンドラが自分の指導者だと考えていたエディントンは、チャンドラの議論を信じるのを拒絶しただけだった。彼は、星はすべて白色矮星になって一生を終えるという考えに固執したのである。彼ら2人は友人だったが、星の崩壊についてのチャンドラの見解に対するエディントンの反論は、1944年にエディントンが死ぬまで続いた。
こうした困難にもめげず、チャンドラは、星の構造や星の崩壊に関する何冊かの本を書き、すばらしい経歴を積んでいった。彼の仕事は最後まで、後進の者に深い影響を及ぼし続けたのだった。

ノーベル賞を含むあらゆる名誉を授けられたにもかかわらず、今もって彼は「チャンドラセカールの限界」で最も有名である。

チャンドラの説は、なぜもっと早く認められなかったのだろうか。それには多くの理由がある。大部分の物理学者にとって崩壊する星は、あまりにもかけ離れた研究対象だった。彼らは、新しい量子力学原子核の詳細を理解するので精一杯だったのだ。さらに天文学者たちは、量子力学相対性理論がもたらした物質の構造に対する新しい見方に懐疑的であった。これら2つの学問が組み合わさって白色矮星の大きさを制限するという考え方は、あまりに遠いところの出来事だと考えられた。