じじぃの「人の死にざま_1546_鉄眼・道光(黄檗宗の禅僧)」

南伝大蔵経

鉄眼版一切経大蔵経 WEBこだま
隠元のもと、めきめきと頭角をあらわし精進をする鉄眼でしたが彼には長年持っていた大きな課題がありました。それは日本には立派な寺院がたくさんあるのになぜ仏教の一大叢書が広く流布されないのかということでした。
ついに鉄眼30代の半ば、師の隠元大蔵経を版木に刻んで大量に印刷をする志を話します。師隠元はこれを喜び中国明代の『万暦版大蔵経』を版元用に渡し、版木収蔵庫として現在の宝蔵院を建立、さらに京都の木屋町に版元(印房)を置くことにしました。
http://web-kodama.blog.so-net.ne.jp/2012-09-30-3
鉄眼道光 ウィキペディアWikipedia)より
鉄眼道光(てつげん どうこう、寛永7年1月1日(1630年2月12日) - 天和2年3月20日(1682年4月27日))は、江戸時代前期の黄檗宗の禅僧。諡号は宝蔵国師肥後国益城郡守山村(現・宇城市小川町)の生まれ。最初、徹玄と号していた。

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『歴史にはウラがある』 ひろさちや/著 新潮文庫 2002年発行
辛苦の末に悲願を果した禅僧 鉄眼 より
鉄眼(てつげん、36歳)
その日は残暑がきびしかった。
じっとしているだけで、汗が出てくる。
鉄眼道光は相変わらずぼろぼろに敗れた袈裟衣をつけているのだが、その袈裟衣がじっとりと汗で濡れていた。袈裟衣をしぼってみると、ひょっとしたら茶碗に一杯の汗が出るかもしれない。肥後(熊本県)に生まれた鉄眼は、夏の暑さにはなれていりはずだが、鉄眼に言わせると、大坂のほうが肥後よりずっと暑さがきびしいそうだ。肥後であれば、9月4日は涼しい秋風が吹いているという。もっとも、暑さは年によって違うから、今年の肥後は大坂よりももっと暑いかもしれぬ。くらべようがないのである。
鉄眼はその日、大坂の禅宗寺院で『般若心経』の講義をしていた。鉄眼の講義はわかりやすいと評判であり、この暑さにもかかわらず30名を超える道俗が聴衆になっていた。
ところが、『般若心経』の講義がいつのまにか脱線し、鉄眼は例の、
――大蔵経の刊行――
の夢を語りはじめていた。
「わが国は古来、仏教国といわれています。たしかに伽藍(がらん)や仏像は中国に劣らぬものがあります。けれども、残念なことに、わが国ではまだ大蔵経が刊行されたことはありません。これで仏教国といえるでしょうか。拙僧は、誓って身を尽くしてこの大蔵経の刊行の仕事を成し遂げよと思っております……」
鉄眼がそのような夢を語るのは、毎度のことであった。彼はあちこちの寺院に招かれては経典を講じていあtのであるが、いつも最後には大蔵経を刊行したいという夢を語った。聴衆はその熱意に感ずるものの、あまりにも大きな夢であって、一種のほら話のように聞いていた。
いや、その日の聴衆は、大半がうとうととしていて、鉄眼の講義に耳を傾ける者は少なかったようである。