じじぃの「人の生きざま_214_中嶋・嶺雄」

おくやみ - 国際教養大学長の中嶋嶺雄さん死去 中国研究の第一人者 (追加) 2013年2月19日 朝日新聞デジタル
現代中国研究が専門の国際社会学者で、国際教養大理事長兼学長の中嶋嶺雄(なかじま・みねお)さんが14日午後10時26分、肺炎のため秋田市の病院で死去した。76歳だった。葬儀は18日に近親者のみで営まれた。3月17日午後1時から秋田市雄和椿川の国際教養大多目的ホールで大学葬が行われる。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0219/TKY201302190191.html
中嶋嶺雄 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E4%B8%AD%E5%B6%8B%E5%B6%BA%E9%9B%84/7933
【訃報】中嶋嶺雄氏ご逝去[桜H25/2/20] 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=CarZjQkd6kw
【正論】国際教養大学理事長・学長 中嶋嶺雄 中国に翻弄され続けた国交40年 2012.9.28 MSN産経ニュース
明日29日、日中国交樹立40周年を迎える。本来なら日中友好の節目を画す祝賀ムードに包まれるはずなのに、尖閣諸島問題に端を発した反日デモなどで、在留邦人は身の危険にもさらされている。進出した日本企業の工場や店舗も破壊された。中国は、10月にも予定される次期中国共産党大会の日程さえまだ発表されないという、内政上の異例の不確実性の中にあり、国民の間に潜在する様々(さまざま)な不満も鬱積している。反日デモが反体制の動きを引き起こしかねないことを恐れる中国当局は、デモを規制しつつ、国民の不満が全土の反日デモで燃え尽きてくれたなら、と期待している。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120928/plc12092803090003-n1.htm
戦士の逸品 「ゲスト:国際教養大学学長 中嶋嶺雄 2012年8月28日 BSジャパン
【ゲスト】国際教養大学学長 中嶋嶺雄 【ナレーター】北村一輝
秋田県に今、企業から引く手あまたの学生を輩出する大学がある。国際教養大学だ。学長中嶋嶺雄が言う「グローバルな人材を育てる教養教育が現在の日本の大学では出来ていない」「このままでは日本は駄目になる」中嶋が開学したこの大学の特徴とは?中嶋の経験から引き出された教養教育とは? 授業はすべて英語、一年間の海外留学が必修そして校内には外国人留学生達、中嶋の想いを繋いで来たものとは? 果たして。
http://www.bs-j.co.jp/bangumi/html/201208282254_20828.html
中嶋嶺雄 ウィキペディアWikipedia)より
中嶋嶺雄(1936年5月11日 - 2013年2月14日)は、日本の政治学者。専門は現代中国政治。東京外国語大学名誉教授・元学長、国際教養大学学長、公立大学法人国際教養大学理事長。社会学博士。
【来歴】
1968年、大学紛争が発生して全共闘により、教員として務めていた東京外国語大学も封鎖される。この影響で、中嶋の研究室も荒されて放火された。文化大革命や大学紛争を見ているうちに、左翼思想から完全に転向することとなる。
大学紛争終息後の1969年から1年間、外務省特別研究員として香港へ留学。当時の日本で文革に好意的なムードが支配的な中、文革を権力闘争として突き放した視座からの論考を多数発表した。その代表的なものは『北京烈烈』に収められ、1981年のサントリー学芸賞を受賞した。以後現代中国論を中心に幅広く執筆活動を展開し、保守派の論客として知られる。
東京外国語大学では国際関係論のゼミナールを担当。1977年、オーストラリア国立大学現代中国センター教員として1年間オーストラリアに在住。1980年、東京大学から「中ソ対立と現代 : 戦後アジアの再考察」にて 社会学博士の学位を取得し、パリ政治学院客員教授となる。1992年、カリフォルニア大学サンディエゴ校大学院客員教授となり、中国の政治と国際関係についての講義を1年間受け持つ。この体験で、アメリカの学生の学業に対する熱心さを感じることとなる。その後、東京外国語大学学長を経て、国際教養大学理事長・学長を務めた。
2013年2月14日、秋田県秋田市の病院にて肺炎により死去。76歳没。

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文藝春秋 2013年4月号
蓋棺録 「中嶋嶺雄(なかじまみねお)」 (一部抜粋しています)
東京外国語大学学長・中嶋嶺雄は、鋭い中国政府の分析で知られ、教育制度改革でも力を尽くした。
1964(昭和39)年、東大大学院時代に書いた『現代中国論』を刊行して正統マルクス主義の立場から毛沢東主義を非難。中国語文献の読み込みや論理の切れ味で、若くして注目されるようになる。
36年、長野県松本市に生まれる。父親は薬局を経営していた。松本深志高校時代は薬剤師を志すが、東京外国語大学に入るころには、学生運動に熱心になっていた。
しかし、60年安保闘争の挫折を体験して、次第に社会主義への懐疑を強める。66年には中国を訪れ、文化大革命を自分の目で確かめて帰国し、雑誌に中国共産党の権力闘争について執筆。毛沢東林彪との対決を予測した。81年に刊行した『北京烈烈』は毛沢東文革と中国の裏面史を詳細に論じて、中国研究に転機をもたらし、サントリー学芸賞を受賞している。
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2001(平成13)年から始まった中央教育審議会の委員を3期つとめる。「日本は大学院教育が貧弱で、大学院についての議論が必要」。また2006年には教育再生会議の委員にもなっている。
小学生のころからバイオリンを趣味としていた。86年にはサントリーホールで2000人の聴衆を前にバッハの組曲を披露している。実は、中国を訪れたときにも、即興で「東方紅」を引いて紅衛兵喝采された思い出があった。

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