じじぃの「人の死にざま_1538_イヴァン4世(ロシア雷帝)」

Ivan the Terrible (1958, Sergey Eisenstein) part 2 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4RA9z3SfnSo
16世紀のロシア (exblog HPより)

シベリアとは : ロシアが気になる
ロシアは16世紀後半のイワン4世(雷帝)時代、シビル=ハン国(ウラル東にあったモンゴル系遊牧民の国)に侵攻し、その後同国は滅びた。ロシアは東進を続け、17世紀半ばにオホーツク海まで達して以降シベリア・極東地域はロシア領となった。「シベリア」はシビル=ハンが語源である。
http://amihappy.exblog.jp/2530480/
イヴァン4世 ウィキペディアWikipedia)より
イヴァン4世(Ivan IV Vasil'evich、1530年8月25日-1584年3月18日 / グレゴリオ暦3月28日)は、モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年、1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝(Ivan Groznyi)という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ。

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『誰も書かなかった 世界史「その後」の謎』 雑学総研 中経の文庫 2014年発行
予言通りにこの世を去った残忍なイヴァン4世 (一部抜粋しています)
ロシアの歴史を語る上で避けては通れない皇帝がいる。「雷帝(らいてい)」として貴族や民衆から大変恐れられたイヴァン4世だ。
イヴァン4世は「近代ロシアの父」とも呼ばれる人物で、1547年、それまで使われていた「大公」という称号の代わりに「皇帝」という意味を持つ「ツァーリ」を採用した。つまり、イヴァン4世は、ロシアを治めることができるのは自分一人であると宣言したのである。
また、彼はロシア正教の総本山であるモスクワ大主教のお墨付きをもらうことで、宗教的にもロシア全体を統治することに成功したのだ。
ところが、戴冠当初は善政を布(し)いていたイヴァン4世だったが、周辺各国との戦争を繰り返すうちに配下の貴族たちと衝突し、彼らに対する弾圧を強化。1560年、最愛の娘・アナスタシアを毒殺した嫌疑で側近を追放すると、彼の猜疑心はより深まっていき、血なまぐさい「恐怖政治」の時代へと突き進むことになる。
イヴァン4世の別称は「雷帝(グローズヌイ)」というが、その呼び名はこのことによるものである。
はじめは彼の周辺にいる貴族だけが処刑・処罰の対象であったが、だんだんとその範囲は広まって生き、貴族の親族や部下、挙句の果てには貴族が治める領地に住んでいる農民までもが襲われる始末であった。彼らは皇帝直属の特別警察によって拷問を受け、死にいたったが、皇帝自身も処刑を見物するのを好んだと伝わる。
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さて、そんな彼の晩年だが、妻の死以降ふさぎがちだった彼は、1581年、これまた残忍な性格の持ち主であった息子・イヴァンを棍棒で殴り殺してしまう。
これは怒りの発作に襲われたイヴァン4世が勢いにまかせてやってしまったことなのだが、以降、彼はこの行為に自ら苛(さいな)まれるようになり、1584年3月18日、55歳で亡くなっている。
実は死を迎える前、彼は占星術師に見てもらったことがあったのだが、そのとき彼は「1584年3月18日に死ぬであろう」と予言されていたという。その後、自分の身に何も起こりそうもなく、当日も健在であった彼は占星術師に対して「アイツらに代わりに死んでもらおう」といきり立っていたが、まさに当日、彼は発作を起こし、帰らぬ人となったのだった。
皇帝の死を耳にしたロシアの人々はほっと胸をなで下ろし、とくに悲しむこともなかった。彼の亡骸は、モスクワの聖天使首大聖堂の霊廟に、息子イヴァンとともに安置されている。